規律・訓練 discipline
「まず取締りの尺度。すなわち、不可分な統一単位ででもあるかのように身体を、かたまりとして、大ざっぱに扱うのが問題なのではなく、細部にわたって身体に働きかけること、微細な強制権を身体に行使すること、力学の水準そのものにおける影響――運動・動作・姿勢・速さを確実に与えることが重要である。つまり、活動的な身体へおよぶ無限小の権力である。つぎに取締りの客体。それは行為の意味表示的な構成要素もしくは身体言語ではなく、またそれらではもはやなく、[身体の]運動の経済や効果や内的な組織である。束縛の対象は[身体の]表象であるよりも体力であって、真に重要である唯一の儀式は訓練のそれである。最後に取締りの様相。それは活動の結果よりも活動の過程に留意する、絶えまのない恒常的な強制権を含むのであり、最大限に詳細に時間・空間・運動を碁盤目状に区分する記号体系にもとづいて行われる。身体の運用への綿密な取締りを可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎのないものとし、体力に従順=効用の関係を強制するこうした方法こそが《規律・訓練discipline》と名づけうるものである。」
(Foucault[1975=1977:142-143])
「構成要素として個々人をもつとされる社会については,そのモデルは契約および交換という抽象的な法律上の形式から借用される,との意見がもっぱらである。商業中心の社会は,個々の法的主体の契約関係として表わしていい,というわけである。多分そうだろう。なるほど十七世紀と十八世紀の政治理論は,しばしばこの図式に従っているように思われる。しかし忘れてはならないのは,同じ時代には,或る権力および或る知の相関的構成要素として実際に個々人を組立てるための,或る技術が存在したという点である。なるほど個人というものは,社会の《観念論上の》表象の虚構的な原子であるにちがいないが,しかしそれは《規律・訓練》と名づけられる,権力の例の種別的な技術論によって造りだされる一つの現実でもあるのである。たとえば,権力は《排除する》,それは《抑制する》,それは《抑圧する》,それは《取締まる》,それは《抽象する》,それは《仮面をかぶせる》,それは《隠蔽する》などの,否定・消極的な関連でつねに権力の効果を述べるやり方は中止しなければならない。実際には,権力は生み出している,現実的なるものを生み出している,客体の領域および真実についての祭式を生み出している。個人,ならび個人について把握しうる認識は,こうした生み出しの仕事に属している。」(Foucault[1975=1977:196])
「原理上は平等主義的な権利の体系を保証していた一般的な法律形態はその基礎では,規律・訓練が組立てる,本質的には不平等主義的で不均斉な,微視的権力の例の体系によって,細々とした日常的で物理的な例の機構によって支えられていた。しかも,形式的には代議制度は,万人の意思が直接的にであれ間接的にであれ,中継の有無を別にして,統治権の基本的段階を形づくるのを可能にする反面では,その基盤において規律・訓練のほうは,力と身体の服従を裏付けるのである。」(Foucault[1975=1977:222])
「むしろ,規律・訓練は一種の反=法律だと考える必要があるのである。その明確な役割は,のり越えがたい不均斉の導入,相互関係の排除である。その第一の理由は,規律・訓練は個々人のあいだに《私的な》絆をつくりあげ,その絆たるや,契約の義務とは全く異なる一つの拘束関係だからである。ある規律・訓練を受諾することは,なるほど契約の手続きで承認されるものかもしれないが,その規律・訓練が強制される仕方,それが働かせる機構,ある人々に対する他の人々のあべこべにしえない従属関係,いつも同じ側に固定される《より多くの権力》,共通の規則についても別々の《成員》では違ってくる立場の不平等性,以上の事態によって,規律・訓練による人々の絆は対立するものとなり,後者の絆は,規律・訓練的な機構を内容としてもつようになるや系統的に絶たれてしまうのである。たとえば,労働契約という法的擬制を,どんなに多くの[規律・訓練の]実際の処置がゆがめるかは周知のとおりである。工場における規律・訓練が最も重要なわけではないのだから。次の理由としては,法律体系が普遍的規範にもとづいて法的主体を規定するのに対して,規律・訓練は[人々の]特色を示し,分類をおこない,特定化する。ある尺度にそって配分し,ある規範のまわりに分割し,個々人を相互にくらべて階層秩序化し,極端になると,その資格をうばいとり,相手を無効にする。ともかくも規律・訓練は,自らが取締りをおこない自分の権力の不均斉[な諸機能]を作用させるそうした空間や時間のなかでは,けっして全面的ではないがけっして取消されもしない,法律の一時停止を実施する。規律・訓練はどんなに規則遵守的で制度中心的であっても,その機構上は一つの《反=法律》である。」(Foucault[1975=1977:222-223])
Foucault, Michel 1975 Surveiller et punir: Naissance de la prison,
Gallimard=1977 田村俶訳,『監獄の誕生――監視と処罰』,
新潮社,318+27p. <222,250-252>
◇Foucault, Michel
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