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教育システムのあり方を考える

斉木 純子 Saiki, Junko
『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』第20章


  −現在の教育のこういう問題を,どこからなおしていったらいいのか‥。
 「… とにかく私たちがやっているのは,公教育がもっとゆるやかに,もうほんとの
総合した一部の部分だけでいい。生活全般を学校の責任みたいに…,親もそう思っち
ゃうんですよね,生活まで学校に面倒見てもらおうみたいなね。それじゃだめだから,なるべく公教育の働く部分っていうのは少なくていいと思う。総括したほんの一部で
いいと思うんですよね。で,もっといろんな,もっと自由なね。」
  −不登校児とかの問題は,やっぱり学校が悪いって感じでうけとめてるんですか。
 「いや,もうこれは学校の問題じゃないですよね。学校制度そのものの矛盾だから‥
いろんな要素が絡み合ってるから,どこが悪者っていうところはないんですよ。要す
るに,もう昔のように学校でひとまとめに教育するっていうのが無理になってきてい
て,それこそ個性化が叫ばれているし,多様化っていうの,一つに絞れないじゃない
ですか。だから,それを集めて手っ取り早く教育しようっていう,学校っていう体制
そのものが子供に合わないんですよね。」(子ども支援塾ネット 八杉さん)

「社会が変わる中でついていけない子が,学校の集団にも,家庭でもなじんでいかな
い。だから,学校を廃止しろって僕は言わないんですよ。学校は便利な所だから。行
けるもんならいけばいい。行かなくてもいい。だから出席するしないが問題じゃなく
て,自分がなにか知的興味をもったときにそれを生かせる場所,それが学校なんだ。
学校に行きたくなければ,自分で自分のやりたいことをやったらどう,って僕は言う
のね。」(アカデミア・小さな学校 宇田川さん)

  −塾としての立場から見た公教育について何か意見とか批判みたいな…
 「先生たちも大変なんだよなーとすごく思うんだけど,余裕がなさ過ぎると思うの。  きっと先生たちも個人個人では皆こういうこともやりたいんだと思うよ。やれないじ  ゃないですか今。」
  −教師の方が逆に縛られている?
 「うん,すごく縛られていると思いますね。」(松柏塾 吉田さん)

T 学校の改善?

 現代の学校教育は,戦後の教育をそのまま受け継いで現在に至っている。戦後の教育は,アメリカの自由平等の精神を模範にしながら出発し,できるだけレベルの高い教育をだれもが受けることができるようになることを使命としてきた。つまり,日本が外国に負けないくらいの近代的な自由と豊かさを手にするために,平等な教育の普及を目標としたのである。そしてその機会均等な教育は,学校という場においてかなえられたのである。学校は,効率よく大勢の子供達が同じだけの知識を身につけられるようにシステム化されたものであった。そしてそのかいあって今や,ほとんどだれでも高校進学できるほど,教育は平等化,大衆化したのである。だが,かつてであれば効果的だった集団で一斉一律に教えられる学校教育は,多種多様な世の中になってしまった現代にあわなくなってきたのである。そこで現実と理想のずれが生じて,さまざまな教育問題が指摘されるようになったのである。例えば,偏差値偏重の問題,教育の画一化の問題,学歴重視の問題,管理教育の問題など例を挙げればきりがない。そして現実的に不登校だとか,受験競争だとかが生じてきたのである。その子供のSOSを受けとめる形で民間施設が生まれたのである。
 一方,公教育側もこの学校教育のさまざまな問題に遅まきながらも気づいた。何とかしなければと,文部省は「中央教育審議会」(以下中教審)や,「教育課程審議会」(以下教課審),を開設し,その教育問題についての対策を練った。臨時教育審議会(以下臨教審)でも,「いじめ,登校拒否,校内暴力などの教育荒廃の現象が目立ち始め,画一的,硬直的,閉鎖的な学校教育の体質の弊害が現れてきた。」と指摘している★01。1987年の教課審では,教育課程の基準の改善の方針を出した。改善のねらいは,「生涯学習への体系の移行から,豊かな心をもち,たくましく生きる人間の育成を図ること,自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成を重視すること,国民として必要とされる基礎的・基本的な内容を重視し,個性を生かす教育の充実を図ること,国際理解を深め,我が国の文化と伝統を尊重する態度の育成を重視すること」であり,子供の自己学習力の育成を重視している★02。また,「教科の内容を一人一人の生徒に確実に身につけさせるためには,個に応じた指導を工夫することが大切である」という見解もなされている★03。個々の生徒の理解度,習熟度の違いに応じて,学習を随時個別化することによって,知識をより確実に定着させようという考え方である。そうすることによって,今までのような,一斉一律な授業形態での画一的な学習はなくなるのである。
 また,学校教育は知識の詰め込みだけでなく,もっといろいろな内容を盛り込むことが必要だという説がある。つまり,もっと学校教育を充実させようということである。「カリキュラム開発研究会」の提言を例にとって見てみよう★04。1から15までの提言があり,現代社会の国際化,情報化を受けての教育が必要であると述べられている。また,地域との連携を強めて新しい郷土教育を成立させることや,学校の外に出て知性,感性,身体を総合しての体験的学習を推進することなどが有意義であるとしている。保護者の学校経営参加や,学校と家庭,地域との連携も必要であるという。そのように学校が社会に対して開かれれば,閉鎖的な教育といわれることはなくなるだろう。また生涯学習への取り組みにより,学校だけが学習するところではなくなるので,学校教育の弊害は少なくなっていくと思われる。
 しかしいいかえれば,どこまでが学校でやることで,どこまでが地域や家庭がやることなのか,分けられていない。つまり学校は,家庭の役割も,地域の役割も,社会の役割も果たさなくてはならないということになりはしないだろうか。ただでさえ,家庭ですべきしつけを学校が担っていたり,子供の社会化を学校に任せていたりという批判がなされているのに,これ以上学校に背負わせようとするのだろうか。そしてそれはうまくいくのだろうか。学校がそこまで責任や,役割を引き受けたとしても,結局苦労するのは教師なのである。
 ここで,教師の役割についてみてみよう。文部省が目指す「自己学習力の育成」,「個性を尊重する指導」は,教師の役割である。そして,体験学習や,国際化教育などを子供に指導するのもまた教師の仕事である。今までのように,「教師が教科書を主要な教材として,そこに盛られている知識を一方的に伝達する」のではなく,個を生かす授業をしながら,子供の創造力や思考力などの能力を引き出さなければならないのである。★05。確かに知識だけが学力のすべてでなくなり,創造力や思考力が大切にされれば,偏差値の活用のありかたは変化するだろう。知識の詰め込みだけでなく,個に応じた学習ができるようになれば,受験体制も変化するだろう。そうすれば,受験競争も少しは押さえられるだろう。しかしそれには,教師自身の変革が必要とされるのである。教師は,子供一人一人が人間として豊かに成長・発達していくうえでのさまざまなニーズを的確に満たしうる,豊かな人間性,専門的,教育的力量を身につけることを要求される。したがって,教師は子供の個性の把握から,子供の生活様式,子供の将来についてなどすべてにわたってめんどうを見なくてはならないのである。しかも一人ではない。平均40人は抱えなくてはならないのである。果たしてそのような指導ができるのだろうか。
 私の知り合いの学校教師(小学校2年生担任)の一日の様子を見て見よう。8時30分に学校が始まるので,6時に起きて,8時前に学校につく。そして今日の授業の用意をする。今日は1時間目が国語,2時間目が体育,3時間目が図画工作,4時間目が音楽である。小学校は学級担任制を取っている所が非常に多いため,これだけの教科を一人の教師が教えなければならないのである。そして,休み時間には子供と一緒に外に出てサッカーをする。給食を食べ,掃除をして,帰りの会をして,子供達は学校が終わる。これが大体1時30分。しかし,教師にはまだまだ仕事が残っている。明日の授業の準備である。また,学級で金魚を飼っているので,水槽の掃除もある。しかし,明日は算数や,生活科があるので,準備がはかどらない。そうすると家に持ち帰ってやる羽目になる。家に帰るのが,夜の8時。それからさらに授業の準備である。寝るのは12時になってしまう。そうして教師の一日は終わる。
 おおかたの教育論者は,教師はもっと努力できるはずだと言う。そしてもっと専門性を高め,もっと人間性にあふれなければならないと言う。しかし,この一日の様子を知ってて言っているのだろうか。これ以上努力する時間がどこにあるというのだろう。授業を教える教科への専門性と,子供と接する人間性を切り替え,切り替え,授業を行えと言うのだろうか。教師といえども,一人の人間である。人間のキャパシティには限界がある。一人の人間が,40人もの人間を相手に,40人一人一人の能力を把握し,その能力にあった教育をし,そのほかいろいろな能力を身につけさせるのは容易なことではないということは,だれにでも分かることであるまいか。努力して,人間性を高めようとしても,限界がある。しかし,教師にはそれが要求されているのである。教師が疲れ切って,日々の授業だけこなすのが精一杯ということがよく分かる。子供のことを考えてやりたくても仕事が多すぎるのだから。もしそこまで教師にやらせるのであれば,1クラスの子供の数を減らすとか,教師の数を増やすことが必要である。現状維持のままで教師の指導力を向上させようと思っても無理な話である。
 つまり,学校にあまりにもいろいろな役割を押し付け過ぎなのである。そして教師にも責任を押し付け過ぎているのである。やることばかり山積みされて,学校も教師も疲れているのだ。だから逆に,もう少し学校も教師も楽にしてあげることが必要なのである。では,どうしたらいいのだろうか。

U 学校を引き算する

 1 学校の役割を減らす

 文部省の「新しい学力観」という目標がある。従来の学力観は一般の社会から遮断された学校という小社会の中だけで評価される学力だった。それに対して新しい学力観は,社会の変化に主体的に対応する力をもって学力と考えるもので,社会というものを視野の中心に据えている。だからいくら学期末や学年末のテストでよい成績を得ても,社会に出てその変化に対応できなければ,学力が形成されたとはみなさないというのが新学力観である。また,社会の変化に主体的に対応する学力を形成するためには,教科書を使った知識詰め込みよりも,社会の中で教えるという視点が必要である。つまり,教科書を含めて社会を学習材として位置づけていかなければならないということである。★06
 では,こうした教育はどこで行われるのだろうか。文部省が言うのだから(と言ってはいけないかのかもしれないが),やはり学校が行うということにならないだろうか。だとすれば,学校の機能拡張の主張ということになり,それを学校がやりきれるのか,またやるのが適切なのかという問題が残ることになる。
 天野郁夫は次のように言う。
 「一生役に立つような知識や技術を,ある時期学校で集中的に学んで,「あらかじめ学習」,「先取り学習」してそれで一生過ごせるという時代は終わってしまった。学校を終わってから学ぶものの量がどんどん増えてきた…。… 学校教育よりも,学校外あるいは学校後の教育のほうが成長産業である。日本の教育はこれまで学校教育を中心に急速に発展してきた。義務教育年限を6年から9年に伸ばし,今度は高等学校を全員就学させるまでにいろいろな努力を払ってきた。幼稚園や,保育所の就園率も90%に近い。つまり,4,5歳から20,22歳までの教育は,ほぼ完成の域に達してしまった…。需要が頭打ちになってきている。それに加えて,人口減少の波である。」(天野[1985:82-83])需要が満たせなくなる学校はそのうちつぶれるところも出てくるだろう,そしてこれからの教育を担うのは生涯教育だと言う。
 「このような時代の中で学校に何ができるのかと言ったときに二つのことがあるだろうと思います。一つは生涯学習をする学習者を養成するのは何と言っても学校の役割だということです。生涯教育だから学校は何もしなくてよいというのではありません。生涯学習者の基礎というのは学校がつくるのです。」(天野[1985:84]) 天野は,学校が果たす役割は,基礎的で教養的な教育を徹底してやることだと言う。また,学校は学習への喜びや達成感を与えていかなければならないと言う。その2つが学校が生涯学習者に与える基礎というわけである。
 「もう一つは,生涯学習の需要が増えつつある状況に学校がどう対応できるのかという問題です。恐らくこれから重要性を増して行くのは職業のための学習ということだろうと思います。」(天野[1985:84]) 日本の生涯教育は遅れていると言われる場合,遅れているのは職業教育の面である。生涯学習というと,日本ではカルチャーセンターに行っている中年の主婦達というイメージが強いが,アメリカで生涯学習者と言えば,職業目的のための学習者を指している。日本の企業は,専門的な技術技能をもった人よりも,教育訓練可能性(trainability)や一般的能力(general-ability) をもった人を重視する。その能力は生涯教育で得られるのである。生涯学習というのは,生活と地域に根ざした学習であり,生涯学習者というのは生活者である。したがって生涯学習者の学習需要は,生活への密着性と地域性を特徴としている。つまり学校と地域との密接なかかわりあいが望まれるのである。しかし,学校側が地域に働きかけるのは至難の業だから(文部省がそんなところまで手を広げられない),地域の方が学校をうまく利用することが必要である。学校の活用の仕方によっては生涯学習者,ひいては住民の学習欲求に答えるような学習の場に変えていくこともできるのである。
 これは,学校外での教育機能の拡大を現状として認めながら,学校の側に「基礎的で教養的な教育」を行う役割や地域での職業教育のための場としての役割を果たさせることにより,学校の「生き残り」を図ろうというものだ。学校(の存続)の側から事態を見ているわけだが,少なくとも状況の認識として,学校外の場の役割が大きくなっていることは認めている。
 もう一つ,小浜逸郎の『症状としての学校言説』(小浜[1991],cf.小浜[1993])のなかの,教育構造改革の基本提言を抜粋したい。小浜の基本姿勢は次のようなものだ。
 1 教師が「適当にやること」と「管理の責任を果たす」こととが両立し得るような教   育形態を構想する。
 2 「公」よりも個人生活に比重をかける大衆の関心動向を原則的に承認し,学校にお   ける農耕社会的な集団統制倫理の無理な支配を可能な限り縮小させる。
 3 平等主義幻想のもたらす抑圧を廃して,知性や能力の勝ったものを上位とする<知   的権力>を,それが力を及ぼすことが具体的な社会的関係の幸福な展開に資する範   囲に限って,原則的に承認する。
 4 単一社会のイメージが支配的となることを拒否し,人生上の多様な諸価値が保存さ   れるような社会構成のあり方を構想する。(小浜[1991:260-261])
 そして,新しい学校と教育のヴィジョンとして,「T公的な義務教育機能の縮小 U民間教育機能の多様化と質的量的な充実 V教師の待遇改善と職場環境の充実」を提案している。
 Tとしては,「例えば,現在の6・3制を廃止し,7,8年制の「初期スクール」にする。必修授業時間を午前中のみとする。」と具体的に構想している。そのことによって,「現在の教員数のままで,教師一人当たりの生徒数が大幅に減り,生徒管理が容易になり,これまでのような無理な精神的肉体的負担が軽減する。空いた時間帯の一部を民間教育機能に解放することによって,現在の市民社会の生活動向に適応した,多様な選択幅が確保できる。」と述べている。
 またUについては,「「初期スクール」を終えた生徒達のための「上級スクール」においては,それぞれの学校が,現在の大学や専門学校におけるのと同じような「専門課程」的カラーを鮮明にうちだし,学力重視の「普通高校」の幻想支配状況を改める。「初期スクール」の年齢にある子供達の,義務教育に拘束されない時間帯においては,公立学校の中に,音楽,体育,美術,職業技術,遅れた子たちのための学力補習,進んだ子たちのための進学教育,実地社会教育その他多くの講座を設けて,その中から好きなものを選択してもよいし,しなくてもよいことにする。そして一方では多様な民間教育機能(塾だけでなく,体育教室,演劇教室,パソコン教室など)を充実させ,午後の時間はそちらに通うことも自由とする。」としている。(小浜[1991:261-264])
 この考え方は,学校の役割を減らすうえで非常に分かりやすい改革案である。学校の負担を軽くして,民間施設にも教育を担ってもらう。せっかく学校教育でうまくいっていない部分を民間教育がカバーしているのだから,民間施設を活用しないという手はない。子供にとっても,義務教育拘束時間が減り,教育が学校だけではなく,選択ができるのだから,自分にとってあう教育を見つけることができる。そうすれば,文部省が重視するという「個性を尊重した教育」や,「自己学習力の育成」も可能になるだろう。
 このように,今まで公教育が担ってきた(とされる)かなりの部分について,民間の参入を積極的に認め,公教育,義務教育は民間教育と競合させつつ,その役割を減らしていくという方向が一つある。何が公教育,義務教育に残されるか。以上にみた論者のアイディアはそう単純に割り切っていないが,「基礎科目」,いわゆる「勉強」的な部分(の基礎的な部分)は義務教育,公教育に,という傾向はあるようだ。それ以外の部分は,公教育も一つの提供主体でありつつ,民間の参入を認める,促進するというのである。さて,こうした「分業」の形態以外はありえないのだろうか。

 2 「勉強」を教えない学校

 「学習ネットワーク」をつくるという葉養正明の主張がある(葉養[1989])。学習ネットワークという言葉にはさまざまな展開が見られる。イリッチのいう,学習意欲を喚起させるに足る教育対象についてのレファレンスサービス,技能センターや技能バンクといった技能交換のネットワーク,学習者間のネットワーク,などもそうである。がここで出されているのは,学校と学校外の教育的活動との間にネットワークをつくるという案である。学校外の教育的活動というのは,塾だったり,フリースクールだったりするわけだが,いってみれば,地域社会の活動である。現在では,地域での教育力に多大な期待がかかっている。なぜなら今地域は一番活発な動きをしているからである。その一つに「まちづくり」という地域をつくっていこうという動きがある。その「まちづくり」という構想の中に,学習ネットワークの構想を加えれば,確実な学習ネットワークが保証され得るのではないだろうかという案である。
 これは現代のダブルスクール化を受けて,学校だけが教育ではなく,学校外教育も教育として認められるようになるという案なのであろう。ここでも民間施設が活用できるわけである。そして興味深いのは,「「学校は遊び,塾は勉強」という言葉が現実性を帯びて受け止められるようになった。」という文章である。この言葉は,学校は遊ぶ場所としての機能をもっているということなのだろうか。わたしはそれどころか,極端になってしまうが,学校は遊ぶところ(勉強はしなくていい)というように受け取った。学校は子供の人間関係を育成したり,社会性を発達させたりするだけで,学力を身につけさせるという面は,民間教育に任せるというのもおもしろそうである。そうすれば子供は喜んで学校に行くだろう。
 『月刊進研ニュース中学版』189(1995-1-15)の「21世紀の学校・地域・家庭はどうあるべきか」という新春教育対談の中で,地域のサポートシステムとしてぜひやっていただきたいことがあります。それは,子供のための情報ネットワークを作ってその端末を学校や地域センターにおいて,いつでもだれでも利用できるようにしてほしいということです。」という発言があった。この発言は,学校5日制を受けて地域ができることについて言及したもので,教育システムについての発言ではないのだが,応用はできると思う。つまり,この情報ネットワークを学習ネットワークに置き換えてみるのである。つまり,コンピューターで教育内容を流し,子供がそれを受けて学習するということである。人間同士の交流は少なくなるかもしれないが,学校に行かなくても教育が受けられることになるだろう。
 学校で何もかもやらなくてよいと考える時,一つには,そして普通は,1で述べたように学校を「勉強」だけの場とするという案が出てくる。けれども,逆に,勉強は学校外で行ってもよい,学校は別の機能を果たす場とするという考え方もあるのだ。これは,地域の子どもはみんな同じところ(学校)にいるのがよいのだという主張(→第19章)とも結びつくものだと思う。

V 個人に教育資金を配分する

 不登校や学習障害というような問題があって,子供達の居場所を作りたいというような,必要に迫られての活動がある。また,学校に疑問を感じて作られた民間施設もある。その疑問というのは,統合教育の問題や,今の学校の子供への対応などであったりする。
 その活動の原動力は主に子供をもつ親たちである。最初は一人で悩んでいた親も,同じような悩みをもつ親同士で集まれるようになる。そして,学校教育に対する思いや悩みなどを話し合う場が生まれてくる。教育のありかたを追究することができるようになってくる。別の形の教育に対する視点が生まれることもおおいに考えられる。そしてだんだんと,学校教育以外の教育を自分たちの手で作りたいと思うようになったのではないだろうか。民間施設が増えれば,学校が相対化されることになる。教育のいろいろな形を選択することができるようになるのである。つまり民間施設の誕生というのは,親たちの学校作りであると言えるのではないだろうか。
 自分の子供に適した教育をしたいからと,自分の子供を通わせる学校までつくってしまった人がいる。英国の元海軍将校でいまは埼玉県で英語学校を開いているマーティン・ソロウェイさんだ。
「結局満足できる学校がなく,自分でつくる決心をした。日本で学校をつくるのは難しいので,両国(英国と日本)にそれぞれ校舎を設け,正規の学校としての認可は英国で受ける。卒業証書は英国で出すから,帰国子女扱いで日本の中学校に進学できる。
生徒は半月ごとに,英国と日本を往復。… 男女共学で,英国人と日本人を10人ずつ募集中…学校は来春開校し,2001年には閉校する。6年間だけの小学校だ。」(山岸駿介「理想の教育の実現へ 自分で学校をつくる」(学校解体新書),『朝日新聞』1994-12-5:7)
 ここで一つの大きな問題は,資金の問題である。民間施設は資金の不足に悩んでいる。民間施設の資金の収入は,大体が会員からの会費や月謝で賄われている。だから経営が非常に苦しい。充分な収入の得られるスタッフはほとんどいない。(→第15章)
「フリースクールや何やの運動をすると,私財をなげうった人はみんな貧乏になっちゃって,家族にもみはなされて,離婚問題が起きたりろくなことはありません。」
(アカデミア・小さな学校 渡部さん)
 経営が成り立たなければ,民間施設の活動を続けて行くことができない。しかし,民間施設に国や地方公共団体からの援助はない。国が教育のために資金を援助するのは,学校法人である。学校法人というのは,「私立学校の設置を目的として私立学校法の定めるところにより設置される法人」である。学校法人を設立しようとするものは,その設立を目的とする所定の事項を盛り込んだ寄付行為を定め(私立学校法第30条1),所轄庁(文部大臣,都道府県知事)の認可を受け,政令の定めるところに従い,登記を受けなければならない(私立学校法第30条1)。認可されるためには,設置する私立学校に必要な基本財産と運用財産を有することが条件とされる(私立学校法第25条1)。法律上学校といわれるものは,国,地方公共団体,学校法人が設置したものとされている(教育基本法第6条1,学校教育法第2条1)。私設の塾や,教養講座,習い事施設などは公共性が問われないという理由から,私立学校には含まれない。したがって,学校教育法と私立学校法により,私立学校(学校法人が設置した学校)の教育の内容が細部にわたり規定されることになる。つまり学校法人とは,経営体が国や地方公共団体ではないだけで,公的な教育機関に属するのである。(以上,牧・池沢編[1985:176])
 資金援助と教育内容がセットになっている。認可し,お金も出す場合には,教育内容は定めた通りにしてくれというのである。民間施設のように,独自の教育方針でやっているところには,国は資金を援助しないし,その存在も公的には認めていないのである。そのため,民間施設の中には,経営的に苦しいにもかかわらず,国に認可してもらおうとは思っていないところもある。資金の援助を欲していても,教育内容がセットの認可では,やりたいと思う自由な教育ができないからだ。(→第15章)
 また教育内容のことを別にしても,基本財産や運用財産がなければ認可が受けられないので,その基本財産がない民間施設は資金が援助してもらえない。学校法人も民間施設も同じ教育機関の一環でありながら,国に認可されているのといないのとで,資金の援助など雲泥の差である。★07
 そこで,一つの案として,M&R・フリードマン(Friedman & Friedman) の考えを紹介したい。
 フリードマンは,アメリカ社会の教育事情についてこう述べている。
「学校教育においては,親とその子供が消費者であり,教師や学校行政管理者が生産者である。上流の所得階層に所属する人は選択の自由を維持することができる。彼らは自分の子供を私立の学校へ進学させ,結果的に子供の学校教育のために費用を2回(1回は学校教育制度を維持するための納税として,もう1回は進学させる私立学校への授業料)払う経済的余裕がある。そうでなければ,公立学校制度の質を基準としてどの学校区に住むかを選ぶことができる経済的余裕がある。」(Friedman & Friedman[1980=1980:250])
 上流階層の子供は教育が選べる。ところが大方の子供はそうではない。彼ら(の親)には私立学校に行く(行かせる)経済的な余裕,よい公立学校があるからといってその地域へ移住する経済的な能力がない。普通の子供や親が学校の教育内容に影響力をもち,自分の要望を実現するためには,学校教育という独占を打ち破り,競争を導入して学生や親に選ぶ権利を与えるしかない。つまり選択の自由が与えられなければならないのである。その自由の中には,教育に使用される公的な資金の利用に関わる選択の自由が含まれる。これはフリードマンの30年来の主張である。
「どんな補助金も個人に対して交付され,それを彼らが自分で選ぶ施設で使えるようにすべきであって,その場合の唯一の条件は,その学校教育が補助の対象として好ましいと考えられている種類のものだということだけである。」(Friedman[1962=1975:113])
 そのために,「授業料クーポン制」の導入が提案される。授業料クーポン制とは,州や,地方自治体が公立学校に出している助成金を全部集めて,すべての子どもに平等にクーポンという形で再分配するということである。クーポンは学校教育のためだけに使え,公立学校の財源はクーポンのみとする。そうすれば,クーポンは多くの学校に適用されるので,親や子供は学校を吟味して選択できることになる。そして学校や教師は生徒に入ってもらうために努力するので,教育の質も向上するというわけである。もっと学校教育に支出したいという親の希望があったとしても,この制度のもとではクーポンによって提供される金額をすぐにでも増加させるという形で解決できる。(Friedman & Friedman[=1984:252-253],またFriedman & Friedman[1980=1980]の第6章「学校教育制度の退廃」中の「小・中・高等教育授業料クーポン制」)
 もう一つの提案は,授業料の税額控除である。これは,親が私立学校に払った授業料などを,所得税から控除することを認める制度だ。しかし,低所得者で所得税を払わない人にはほとんど恩恵がない。そこで,授業料控除を受ける権利を譲渡可能にすれば是正できる。例えば,控除権を事実上使えない低所得者のAさんは,子どもはいないが所得税を納めるBさんに子どもの授業料を払ってほしいと頼む。その見返りに,Aさんは控除権をBさんに譲る。そうすれば,Aさんの子どもの授業料は税金から払われるわけだし,Bさんは所得税が控除されるわけだから損はしない。これも,クーポン制と同じ効果が得られるだろう。(Friedman & Friedman[=1984:253-254])
 日本でも,教育費の使い方について・・フリードマンの説を知ったから,ではないだろう・・同じような指摘がなされるようになってきている。
「民間施設は…‥文部省が把握しているだけで全国に 322か所…民間施設の利用は教育費の負担も重い。年間40万以上かかる施設も少なくない。これに対して,国や自治体が1年間に支出する教育費は児童,生徒1人当たり70〜80万円。不登校の子の親や関係者には「税金から出される教育費は子供にくっついてくるもの。学校にではないはず。個人単位で教育費を配分しては」と言った声もある。」(『朝日新聞』1994-12-19夕:14)
 「公金」を支出する以上,その使途は制限されてしかるべきだという意見もあるだろう。 だが,第一に,この公金とは誰かがくれたお金ではない。納税者が支払っているものである。最初のフリードマンの引用にもあるように,認可されておらず公的な資金が入っていない施設に教育費を払っている親は,この費用と税金(の中の教育費にあたる部分)を二重に支払っており,しかも後者はただ払っているだけで何の見返りもない支出である。
 第二に,資金源のことを別にしても,たしかに教育の内容を一切自由にしてよいものかどうかは問題だ。特に子どもの場合,どこまで子どもが選択することができるかという問題がある。では,選択の主体を親とし,親が選択すればどのような教育も認められるとすればよいか。そうとも言えないだろう。だから求められるのは完全な自由ではないだろう。米国のフリースクールも一定のコントロールを受けている(→★07)。自由をどこまで認めるべきなのか,このことは考えなくてはならない問題である。だが,今の公教育に乗らない民間の活動が果たしている役割を見れば,もっとずっと大きな自由が認められてよいはずだし,そこに公的な資金(税金)が使われてよいはずだと思う。



★01 『内外教育』1987-8-8:9
★02 『内外教育』1987-12-1:11-12
★03 『臨教審だより』1987-8
★04 『悠』1995-3:74-75
★05 藤枝・林編[1991:195]
★06 『悠』1995-1:95
★07 米国でもフリースクールの財政は,教育内容が自由であることと引き換えに,かなり厳しいようだ。
「クロンララやナチュラル・ブリッヂのような私立のフリースクールは,その教育内容について,州当局のコントロールを受けています。例えば,年間の開校日数,州認可の教員免除,保健安全対策など,最低限の設置基準を守らねばなりません。ただ,その半面,地元の教育委員会のコントロールからは,かなり自由です。なぜなら,これら私立のフリースクールは,地元の「教育区」から一切補助金をもらっていないのが一般的だからです。/このことは同時に,私立のフリースクールが限られた収入のやり繰りしていかなければならないということを意味します。たまには,寄付もありますが,主な収入源といえば,子どもたちの父母が負担する授業料だけ。しかし,その授業料さえ,払うことのできない親からは受け取っていません。仮に,すべての親が授業料を納められたとしても,そのほとんどは,人件費に吹っ飛んでしまうのが実情なのです。…」(モンゴメリー&コーン[1984:33])
 Kozol[1982=1987:139-159]には,米国のフリースクールが財団からの寄付をもらう戦略がかなり具体的に記されている。
  「私が知っているほとんどのフリースクールの戦略的原点は,20万ドルではなく,5  千,1万,2万ドルといった金額を出してくれる全国的に有名な存在ではないが評判  のよい財団の所有者と,会う約束をとりつけることだった。…」(Kozol[1982=198  7:141])


REV: 20160425
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