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第15章「フリースクールの現在――教育のオルタナティブ」


last update: 20170425


教育のオルタナティブ

                                Ito, Shino
                                 伊藤 志野

 『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』第15章

 「自由な学校」――フリースクールを直訳してみるとこうなるのだろうか。初めて「フリースクール」という言葉を聞いた時,そんな学校あるのだろうか,というのが正直な感想だった。その一方で,かたくるしい学校のイメージをもたない自由な学校があるとしたら,そんな試みをやっている人がいるとしたら,それはいったいどんな所なのだろうかという素朴な疑問と興味が湧いた。学校教育はいつの時代にも批判を受けながら改善されてこなかった。また,それを支える文部省,教育委員会などは,なかなか変わろうとしないその古い体質が常に槍玉にあげられてきた。その学校教育とは,誰もが一度は経験するものだ。そして,在学している間は学校に対して疑問や不満,批判を持ちながらも,いったん卒業してしまうと関係のない他人事としてしまう人が少なくない。「学校とはそういう所だから,多少いやでもちょっとの間辛抱するしかない」,さらには「学校は社会の縮図なのだから,学校でうまくやっていけないと,厳しい社会で生きて行けない」といった意識に変わってしまう人もいる。私はそんな「あきらめ」の学校観に対して,フリースクールの存在,この新しい動きに,教育界に新風を吹き込むことのできる可能性がひょっとしたらあるのではないかと思い,フリースクールにこだわってみることにした。フリースクールに関わる人々がどのような意識で教育問題に携わっているのか。教育は国がやるものだと思われている社会の中で,どのような役割を果たし得るのか。考えていきたいと思う。

T 「不登校」と向き合うフリースクール

 フリースクールはもともと欧米で発展した私立の学校で,生徒の自由・自主を重んじることを教育理念とし,個性を育てる芸術教育を特徴としている。ルドルフ・シュタイナーのシュタイナー学校,アレキサンダー・ニイルの「サマーヒル・スクール」が中でも有名だ。これらは本国のドイツ,イギリスだけでなく,世界中に学校を持っている。★01
 しかし,日本でフリースクールと名乗っているところは必ずしもこうした自由主義教育の名の下につくられたわけではない。日本のフリースクールの成り立ちには2つの流れがあると見てよいだろう。一つは上述したニイルやシュタイナーなどの欧米の思想と実践を学んだ人たちが,既存の学校教育とは違う教育を目指して設立したものだ。それは主としてアメリカのフリースクールとの交流から発想されたもので,「グローバルスクール(地球学校) 」(兵庫県高砂市),「野並子供の村」(名古屋市),「地球の子供の家」(府中市)などがある(奥地[1992])。また,1991年に開校した「きのくに子どもの村学園」は,ニイルの研究家である大阪市立大の堀真一郎氏によって県の認可を受けてつくられた学校だ。そしてもう一つの流れが,深刻化した不登校現象に対応するために,不登校の子供をもつ親たちの手で子供の居場所をつくっていこうという動きからつくられたものだ。しかし,実際には前者の利用者も登校拒否,不登校の子供が圧倒的に多く,考え方や実践もかなり共通性が高いという。この点に関しては,「東京シューレ」というフリースクールを設立した奥地圭子さんの著書に詳しく述べられている。

「日本でのフリースクール運動は,いわば登校拒否にリアリティをもつのであって,このくらい学校絶対化の意識がきつい国では,自由な学校をつくるといっても,理念からだけでは現実化が難しく,具体的に行かない・行けない子が出てはじめて,認めざるをえない形で市民権を得る。つまり,登校拒否を現実的基盤としながら,子供たちがつくってくれたチャンスを生かして,学校制度の枠をゆるめ,あっちこっちに様々な形のスペースを実らせていく好機にきていると思う。」(奥地[1992b])

 フリースクール設立時の意識の力点がどこに置かれたかの違いがあるだけで,社会的に期待される役割,子供に求められるものはほぼ同じと言ってよいだろう。つまりその役割とは,学校以外に自分たちの居場所を得ることによって,勉強以外にも遊んだり,友達をつくったり,自分の意志でやりたいことを選択し,決定する,といった不登校の子供たちのニーズに応えていくことだ。そこで子供は傷ついた心を癒し,自分らしさを取り戻していく過程で,自分の生き方を考えていくことができる。そのような学校以外の子供の成長の場が,フリースクール,フリースぺース,私塾であり,名前が異なるだけでその果たす役割は等しく,不登校児が安心して来られる(居られる)場所となっている。

U 「不登校」と向き合う人々

 フリースクールは不登校現象との関わりの中で出てきたものであるが,実際に個々のフリースクールをつくった人々は直接的にどのような動機から,どのようなきっかけで設立にまで至ったのだろうか。ここでは,「東京シューレ」,「アカデミア・小さな学校」の2つのフリースクールを見ていきたい。

 1 フリースクールができるまで@:東京シューレ

 奥地圭子さんが東京シューレを創設した直接的なきっかけは,長男の登校拒否だった。
そして,長男がカウンセリングを受けた病院のなかで,同じように不登校の子供を持ち,
同じ悩みをもつ親によってつくられている「希望会」の存在を知った。この「希望会」は,その病院に関わる親だけで,カウンセリングを行う渡辺位氏の指導の下に勉強会を行う会だった。そこに入会し,研究を重ねるうちに,「もっと世の中の考え方自体を変えていかないと,これは子供の問題で解決しないんじゃないか」と考えるようになり,希望会の親の有志で1984年に「登校拒否を考える会」を発足させた。もともと公立小学校の教師だった奥地さんは,「学校の内側から教育のありようを考え,実践してきて,今の学校のおかしさを肌身に感じてきた立場」でもあった。そして「考える会」の活動を続けるうちに,「学校に行かない子の居場所がどうしても緊急に必要なこと,今の学校の管理や競争を排した,自由な学びの場が実際に必要なことを感じ」,1985年3月,22年間続けた教師をやめ,東京シューレの母体となる「OKハウス」を開設することになった。「東京シューレ」という名前でオープンしたのはその3ヵ月後だった。(奥地[1989])

 2 フリースクールができるまでA:アカデミア・小さな学校

 アカデミア・小さな学校は,学習障害(Learning Disabilities=LD)やそれに似た症状があるために,今の学校教育制度では勉強についていけない子供を特に対象としたフリースクールだ。LDに関しては後ほど触れるとして,ここではまず創立の経緯を見ていく。アカデミア・小さな学校の教師である渡部さんは,以前は「フリースクール・飛翔」の責任者だった。渡部さんは,飛翔の発起人ではなく,「学習障害児親の会」のメンバーから学習障害児の学校をつくるから協力してくれないか,と頼まれたことから学習障害児との付き合いが始まった。

渡部「みんなが出来ることが出来なかったとか,わかんない,いじめられた,仲間はずれにされたっていう子供たちは今までにもさんざん見てきたから,じゃあ,そういうLD児の専門家でもなんでもないけど,誰も引き受けてくれないのでっていうので引き受けたわけです。」

初めは,不登校ぎみだったり,勉強の分かりにくい子供を持った親が,勉強会や講演会を開いていたが,その親達から会をつくってLD児の存在をもう少しアピールしていこう,という動きが生まれ,各地で親の会がつくられていった。「学習障害児親の会」が発足したのは,1989年だった。そこで親は,学習障害がどういうものなのか,親としての対応の仕方を学び,無理に子供に勉強を教えることはやめたが,しかしそれでは子供が救われないのではないか,何かこの子たちに応じた能力の発達の仕方はないかということで,小学校の親を中心にとにかく中学校をつくろう,という動きになったという。

渡部「LD児のための通級学級施設を公立中に求めたり,私立中に受け入れを打診したけれども返事ももらえなかったと聞くと,私も3人の子持ちであり公教育の教師をしたり,教育専門誌の記者をしたりと,好むと好まざるとにかかわらず,教育・学習・子供たちの状況に塾以前から関わってきた者として,聞きのがせないものがあった。勉強の分からない子にはいやというほど接して,自己の限界を越えるような日々に心身をすりへらしてきた。そんな私がフリースクールで午後4時まで教え,その後は自分の塾で夜中まで教えるという生活をとってしまったのはなぜかというと…こんな学校つくったらろくなことにはならないっていうのは私には分かっていたんです。ただ,問題の困難さがあまりに分かるので,問題が見え過ぎるがゆえに,現場の引き受け手がいないという事実で私は引き受けた。」

 「フリースクール・飛翔」が開校されたのは1991年4月で,母親たちの親の会が運営の中心となり,渡部さんを含めて3人の教師と8人の生徒で学校が始まった(その後1年間の軌跡については『東京新聞』1992-3-22〜4-10 の14回の連載「学習障害児の学校・・飛翔の1年」)。渡部さんはその後間もなく飛翔をやめ,同じく飛翔の講師だった宇田川さんと共に「アカデミア・小さな学校」を創立するに至った。この「分裂」についてはVで触れる。フリースクール飛翔は,今では中等部の他にも高等部も併設している。校舎は,川崎市の町工場が並ぶ多摩川近くの借家を中等部が,近くの町工場の2階を高等部が借りてやっている。学年制をとらずに,主要5教科の授業は到達度ごとに5人程度のグループに分けている。読み書きの基礎に戻って,欠けている部分を指導する一方,選択授業でコンピューターを学ぶ子もいる。書くことが困難な子供には,ワープロを使うことを教えると,次々と文章が書けるようになったそうだ。高等部は,都内の高等専修学校の関連校としてカリキュラムが組まれているため,3年目にそこに通って修了すると,専門学校や大学の受験資格も得られるという。飛翔の会(学習障害児の自立を支える親の会)は今後,講習会の開催や読み書き障害の調査・研究,教材づくりに取り組んでいくという(『朝日新聞』1994-12-5:7)。飛翔もまた,開校して4年目となり独自の歩みを続けている。

 3 問題をどう捉えるか

 東京シューレの奥地さん,アカデミア・小さな学校の渡部さんのどちらにも共通しているのは,フリースクールを始める以前からいろいろな形で教育にかかわってきたことだ。教育の問題の根深さ,深刻さを充分に知る立場にあり,また考え続けてきたという経緯があったのだろう。さらに奥地さんの場合,長男の登校拒否によって今の学校教育の歪みが切実な問題として降りかかってきた。子を持つ一人の母親として,教師として,一市民としてこの問題を世に問いかけていくためにも,自分たちで動き出さずにはいられなかった状況が伺える。奥地さんには,自身の「子供は学校へ行くもの」という固定観念と,間違った常識で,長男を拒食症にしてしまった経験がある。

「それは今でも,子供を追い込んだ責任を負っている者として,子供に申し訳なく思っており,このような過ちと苦しみでダメにされる子供がいないように少しでも自分の経験を分かちあえたら,というのが私の今日の活動の原点にもなっている。」(奥地[1992b])

 このような,経験から分かったことを共有しよう,自分が知っていることを他の人にも知ってもらって役立ててもらおう,といった意識は親の会や考える会の基盤にもなっているものだ。

渡部「うちに3人娘や息子がいますけど,皆ある時期(学校への)不適応の症状を起こしています。これは,私は当然だと思うんですね。だから今私が扱っている自閉とか,軽い分裂とか神経症的な子の話をすると,たいていの方が,自分にもそういう時期があったとか,程度は違ってそこまではいかなくても,常にそれに近い状態だとか言うんで,私がこういう運動をしているのも私自身の中にも,ものすごく自閉的な傾向も,消極性も内向性も,エゴの強い面もいろいろありますから,「身につまされる」っていうか,そういうものがあってやっているんですけどね。」

 渡部さんのこのような意識から読み取れるものは,問題を他人事では済まさず,切実なものとして考えていこう,特殊な問題ではなく誰にでも起こりうる社会全体の問題として捉えていこうとする姿勢ではないだろうか。

U 東京シューレの10年の歩み

 1 東京シューレのある1日

 JR王子駅から住宅街を通って少し行くと,線路に面して立っている背が高く,丸い形をした近代的なビルディングがあった。建物の壁面に大きく書かれた「東京シューレ」の文字が目立っている。ちょうどお昼休みだったのか,中学生ぐらいの男の子が5〜6人でサッカーをしていた。制服は着ていない。約束の時間より早めに来てしまったので,入口の前でうろうろしていると一人の男の子が話しかけてきた。「何しに来たんですか?」――「奥地先生にお話を伺いに来たんだよ」――「先生じゃなくて奥地さんでいいんだよ」ここでは先生とは呼ばずに「さん」づけやあだ名で呼び合い,先生と生徒という関係をもっていない。
 2階に上がっていくと,そこは広いフロアにデスクが並んでいて一見職員室ふうだった。でも学校にありがちな整然とした雰囲気はなく,いろいろな人が入れ代わり立ち代わり出入りする雑多な空間だ。手前のテーブルでは,登校拒否を考える会の会報を発送するための作業を,ボランティアのお母さんたちがやっている。子供もスタッフ(先生ではなくスタッフと呼ばれる)も一緒になっておしゃべりをしているので,どの人がスタッフなのかもちょっと見では分からないくらいだ。子供たちが次々とやって来て「こんにちは」とあいさつをしてくる。私達のような見学者は珍しいことではなく,外来者には慣れているようで,興味津々で,どこから来たかとか大学はどこだとかいろいろと聞いてきたりもする。シューレに来てみての第一印象はかなり予想外で,登校拒否の暗いイメージはなく,皆元気で明るい。むしろその活気やエネルギッシュさに圧倒されっぱなしだ。シューレに来るかどうかはすべて本人の意志によるので,やって来る時間は子供によってバラバラだ。
 建物の3階が中・高生のための,5階が小学生のためのフリースペースとなっている。
もともとこのビルは会社用に建てられたもので,線路側の壁面が半円を描き,そこにぐるりと張られた窓のおかげで各階ともとても明るい。窓に沿って太くて大きい円柱も何本か立っている。部屋の仕切りがあるわけでもなく,公立の学校で使われる教室ぐらいの広さの,半円形をしただだっぴろい空間が一つあるだけだ。
 シューレがこのビルに移って来たのは1991年の4月だ。それまで,開設して6年の間は東十条の雑居ビルでやっていたが,そこも狭かったのでもっと広い所を探そうということで移転となったのだ。会社が入るようなビルだから,当然家賃も安いわけではない。ビルを借り切るほどの余裕がなかったため,始めは2フロアだけ借りようか,という話だったという。しかし,地域でPTAの会長をやっているというこのビルの持ち主が,とても理解のある人で,シューレが払えるような値段まで下げてくれたそうだ。
 建物の各フロアにはすべてカーペットが敷かれているので,毛布にくるまって寝ている子もいれば,ピアノやギターを弾いたり,ゲームをしたり漫画を読んだり,自分のしたいことをやっている。私達は,そのフリースペースの奥の小部屋の「静寂の間」と呼ばれるところに通された。ここでは見学に来た母子と話し合いをしたり,小グループの会議がなされる。奥地さんを待っている間に,スタッフの方がお茶を運んでくれ,小さなクッキーのお菓子を買ってくれないかと持ってきた。そのクッキーは,2階で見かけた,母親と一緒に来ていた小学校低学年くらいの女の子がつくったものだという。
この女の子はシューレには通わずにホームスクーリングをしている。ホームスクーリングというのは,学校ではなく家で,自分でつくったカリキュラムにそって,アドバイスを受けながら学んでいくものだ。シューレは「トヨタ財団」から助成金を受けて,ホームスクーリングの普及をしていく活動も行っている。初めはこの財団の助成金については知らなかったのだが,シューレに通う子供の親が見つけてきて応募したところ,相当高い倍率だったが助成を受けられるようになった。そして年間 200万円の助成金を2年間受けたそうだ。この助成金はあるプロジェクトに対して出されるものなので,すべてホームスクーリングの活動に当てられ,シューレの運営のために使われてはいない。
 シューレはこの活動を通して,アメリカ,イギリスでそれぞれホームエデュケーション(ホームスクーリング)に取り組んでいる「クロンララスクール」,「エデュケーション・アザワイズ」との交流も持っている。クロンララスクールはパット・モンゴメリー氏が主宰するミシガン州公認のフリースクールで,その卒業証書は高校や大学進学の際にも有効だという。ポール・ベントレー氏が幹事を務めるエデュケーション・アザワイズはフリースクールではないが,家庭を基盤とした教育を実践する家族への援助を行う自助組織だ。
 フリースクールの日米交流は1994年4月に実現した。シューレの子供とアメリカの子供が1ヵ月間,お互いの国を訪問し合い,一緒にホームステイをしたり旅行をしたりした。きっかけは,1年前にシューレの子供たちがアメリカ旅行をした際,クロンララスクールのスタッフと出会ったことからこの話が持ち上がった(『朝日新聞』1994-1-10:10)。このための計画,資金集めはすべて子供たちでやり,費用は全部で 720万円かかったが,親には出してもらわず,子供たちが財団を見つけてきて,「国際交流基金」,「森村豊明会」からの援助を受けて実現にまでこぎつけた。奥地さんは,登校拒否の子供を「治そう」という文部省の発想の中では絶対に出来ないような夢みたいなことを不登校の子供がいっぱいやっているのだと言う。
1994年9月にはパット・モンゴメリー氏,ポール・ベントレー氏の2人を招いて,「わたしはうちでやっていきたいの!」と題した東京シューレ主宰の国際シンポジウムも開かれた。当日は予定していた600人を超過して,約800人が詰めかけて立ち見がでるほどだったという。このホームスクーリングの運動は93年に始めたばかりの試みだが,すでに関心を集めつつあるようだ。★02
 時折放送で,お菓子の販売の知らせや授業の開始の知らせが入る。授業は4階のスペースを使ってやることになっている。時間割りは小学生用と中・高生用に分かれているが,基本的に本人の意志で自主的に授業に参加することになっているので,勉強をしたくない人はフリースペースで遊んでいてもかまわない。時間割りのごく一部に教科学習があるだけで,サークル活動の時間やいろいろタイムなどでテーマを決めて活動をしたり,ミーティングの時間に当てられている。中・高生の夜の時間には各種講座が設けられており,とりわけ「シリーズ人間」は社会人を招いて講演をしてもらう時間で,社会の様々な生き方を学ぶことが出来る人気の講座だ。
インタビューを終えると,4階でシューレを特集したテレビ番組のビデオを見せてもらった。そのそばでは,中学生ぐらいの子が5〜6人で,愛知のいじめを苦にして自殺をした事件について話し合っていた。彼らは学校に通う子よりもはきはきと自分の意見を言うためか,とても大人びて見えるし,社会問題に対する意識も高いように感じる。
 社会問題を勉強したことをきっかけにして,子どもたち自身で調査を行ったこともあった。先日の『朝日新聞』(1994-3-6〜10)の「50年の物語」で「ヒッピーの『ポン』」という話が5話連続で掲載された。「ポン」こと山田塊也氏が石油備蓄基地計画反対運動のために奄美大島へ渡り,「無我利道場」というコミューンを構えて共同生活をしていたのだが,86年に「無我利」の子供たちが制服に反発し,登校拒否をしたことから,島民のほとんどと,それに右翼までが加勢して「無我利」の人々の追放運動が起きていたのだ。91年にこれを知ったシューレの子供たちは,なぜ登校拒否から追放運動が起きるのかを自分たちで実際に聞いて見てきたいと,「子供調査団」を結成した。そして調査団の子供6人はカンパで資金を集め,奥地さん夫妻に同行してもらって,奄美大島で3日間の聞き込みの調査を実現させるまでに至った。この調査の結果は『子どもたちが語る登校拒否 402人のメッセージ』(石川・内田・山下編[1993:995-1028])に詳しく報告されている。
帰る頃になると,3階では子供全員とスタッフも混じって大きな円座を組んでミーティングが開かれていた。ミーティングでは「いろいろタイム」に何をするかなど,子供たちから議題が出され,それを子供もスタッフも同じ立場で話し合って決めて行く。シューレでは時間割りをはじめいろいろなことが話し合いで決められるので,このミーティングは重要な意味を持つものとなっている。
 自分の意志でシューレに通っていた子供は,再び自分の選択,決定でシューレを卒業していく。それは,中学の間に不登校だった子供が高校へ行くと決めた時だったり,入学・卒業の時期でなくても,自分でシューレの次のステップを見つけた時ならいつでも退会できる。卒業後の進路で最も多いのは,学校に戻る,進学する,という形だが,通信制・夜間の学校だったり,中検や大検の資格をとってから先へ進むということもある。また,学校的な場所以外にも,自分の趣味を生かした仕事を見つけたり,ボランティア,海外留学といった多様な人生の選択をしている。
 シューレにいた3時間の間に,シューレが学校とは全く違う雰囲気をもっており,とにかく活気に満ちていたこと,明るく元気な活動の場になっていることが伝わってきた。そしてさらに,いわゆる普通の学校が,授業の他にも補習,部活,と一日中子供を学校に拘束してしまう閉じられた世界になっているのに対して,シューレはいろいろな面で社会に触れることのできるオープンな,社会性を身に付けることのできる所ではないかと感じた。
 このように,シューレはとても明るく前向きなイメージを与えてくれる。それは,子供,スタッフが共に多数の大所帯で規模の大きさに起因する部分もある。しかし,それ以上に圧倒されるほどの子供のパワー,エネルギッシュさがもたらすものだ。それは「登校拒否」や「いじめ」から連想される暗いイメージとは全く異なるもので,むしろ私の経験してきた公立の小・中学校よりもはるかにエネルギーに満ちている。このシューレの性格は,シューレに通ってくる子供が親の意志ではなく,子供自らが選択し自分の意志で来ていること,さらに子供本人の意志が尊重されることによるのだろう。そしてシューレが歩んできた10年の歴史は,奥地さんと子供たちが新しいフリースクールの形を模索しながら,問題点があれば皆で話し合い,改善に改善を重ねてきた結果である。こうした子供の積極的な学校づくりへの参加,何か悪いところがあれば変えて行こうという前向きな姿勢が東京シューレ自身,奥地さん自身が活動を外へ外へと広げていく原動力につながっているように思える。

 2 10年という重み

 フリースクールや考える会のような市民活動レベルでの動きは,全国各地で起き始めているものの,シューレはその中でも創立以来10年という歴史,子供数 130人という規模の大きさからも,草分け的存在としてよく知られている。創立当初は奥地さん一人で始めた市民活動がなぜここまでやってこれたのか。もちろん登校拒否が増えてきた時期と重なり,社会的必要性があったことが一番大きいだろう。しかしそれ以外にもシューレ発展の要因があったのではないだろうか。フリースクールの組織的な面からも考えてみようと思う。

 @ 運営資金をどうするか
 シューレの開設にあたって,奥地さんは,長続きさせるためには善意(ボランティア)だけではやっていけないと考え,経営的基盤をしっかりさせることを一貫して考えてきたという。そのため月々の子供の会費(正会員 40000円,準会員 13000円)でほとんど賄い,行政,企業,財団からの援助等はいっさいもらっていない。会員に正会員と準会員があるのは,シューレには月に2〜3回しか来ないが心の拠り所としている子供や,シューレに籍を置いているだけで自分の居場所があると安定するといった子供がいるため,そうした子供のために準会員が設けられているのだ。人数的には一割にも満たない程度で,ほとんどが正会員と見てよいだろう。また,ビルの契約更新時にお金がかかるため,会費とは別に正会員は月々3000円を払う。親としては月に 43000円の出費だ。公立の学校に通うことを考えれば決して安いものではない。というのは,ビルの家賃だけでも月に 170万円もかかるからだ。そのため親の負担を軽くしようと通学定期を効かせる運動を現在行っており,消費税の免除を受けられるような運動を今後していくことも考えている。また,シューレが現在の王子に移転した後,大きくなるシューレを支えるために「東京シューレ基金」が創設された。それと同時に,これまで奥地さん個人で引き受けていた経理を,父母による「運営委員会」を制度化することで父母と共に討議していくような形にした。この基金は運営委員会が母体となって資金協力を呼びかけ,1992年の時点で目標額の2400万円に対して 600万円が集まっている(奥地[1992b:141])。
 民間で教育を行っていく場合,財政的な援助を受けるのには,一つには法人(学校法人)化という手段がある。奥地さんは税制の優遇措置などを受けたいと,これまでに二度,真剣に法人化への道をさぐったという。しかし,補助を受ければ同時に文部省の管理も受けなければならない。公教育の価値観に縛られるのではたまらないと,スタッフとも話し合って,申請をせずに任意団体にとどまることにしたそうだ。(『朝日新聞』1995-2-27:7)
 1993年8月に東京で開催されたシンポジウム「教育ルネッサンス93」では,認可か無認可をめぐって問題に突き当たった。これに参加した学校,フリースクール7校のうち,東京シューレ以外は皆認可を受けた学校だった。その一つである「きのくに子どもの村学園」の堀氏は,「公的援助を受けたいこと」と認可の枠の中で「『こんなやり方もできる』ということを実証し,日本の教育改革に小さくても一石を投じたい」という思いから認可にこだわるという。その一方で,「きのくに」から去って行った人もいる。校長予定者だった西山知洋氏は「不登校の子供たちが続々と出てきているし,その子らと日常的な関わりをやりたい」(『子どもとゆく』79号,1992年10月)という思いがあって,無認可のフリースクールを目指し,大阪に「なわて遊学場」をつくった(徳岡[1994])。
このシンポジウムの席上,堀氏は「行政側は思ったより協力的だった。文部省の基準をクリアしながら自分たちの教育理念を実現するのは可能だ。とにかく動きださなければ日本の教育は変わらない」と発言した。一方,奥地さんは唯一無認可の立場から,認可を目指す運動に疑義を呈したという。それは,「学校は子供が成長するための一つの機関にすぎない。理想の学校ができるのはうれしいが,どんないい学校でも合わないと思う子はいる。良い学校をつくればという考え方は狭すぎはしないか」という考えがあってのことだ。一つには学校という枠のなかで,もう一つには学校外で教育を改革していこうという動きがあり,奥地さんは後者の,民間として自由に活動できる方法を選んだのだ。(『信濃毎日新聞』1993-9-6)
現在,有給の常勤スタッフが16名,講師7名,ボランティア15名で活動を行っている。
会費による収入以外に,一般見学会,説明会,関係書籍取扱手数料などから多少の収入がある。しかし,支出は毎年赤字か赤字すれすれの状態だ。資金が足りなければ本を書いて売ったり,バザーを開いたりしたが,開設以来常に手伝いに来てくれたボランティアに支えられている面も大きい。

A 責任の所在をどうするか
 東京シューレは創立までに,登校拒否を考える会の活動とかかわってきたが,責任の所在はこの考える会ではなく,奥地さん個人の責任としてやってきた。「アカデミア」の渡部さんが以前にかかわった「飛翔」もそうだったが,子供の居場所的な施設は,もともと登校拒否の子を持つ親の会が前身になっている場合が多く,その必要性から居場所を開きフリースクールに発展することもある。奥地さんは「「考える会」でやる方が金,人材,意識の面でやりやすいと思われた」が,「誰が責任をとるのかということ,意見は必ず分かれてくるだろう,その時どうするのかということ,さらにシューレをめぐる対立が「考える会」の分裂すら招くであろうこと」を考え,この形をとったという(奥地[1991]) 。アカデミアの渡部さんと宇田川さんが飛翔を辞めた原因は,実はこの問題と深く関係する。二人は経営者側の親の会に雇われている形だったが,この親の会と教師の間に教育方針,運営方針のずれが生じたため,親,教師とも二つに割れ,多くがそこを辞めたという経緯があった。もちろん一概にすべてのフリースクールがそうした危機に直面しているとは言えないし,うまく乗り切っているところもあるとは思う。シューレ自身も責任が奥地さん個人になっているとは言え,運営の決定の場が会員の父母による父母会となっており,うまく機能しているためとりわけ問題はないように見える。しかし,シューレがもしかしたら起こっていたかもしれないそうした問題を,開設の時点でクリアしてしまっていたことは,重要なポイントなのではないだろうか。

 B 親の会が意味するもの
 東京シューレが歩んで来た10年間は,そのまま登校拒否を考える会の歴史と重なる。この考える会の運動はすでに全国的な組織となっており,この運動が目指して来たものは,一つには親の会を発展させること,もう一つにはシューレのような子供の居場所,学びの場を増やして行くことの二側面をもっている。そして,親の会の事務局をシューレ内に置いたために親の会が発展し,また親の会が土台となっているためシューレという子供の場も発展した,というお互いの相乗効果で支え合って来た関係だと奥地さんは分析する。しかし,考える会の会員が必ずしもシューレに子供を入れているわけではない。シューレの方にも別に父母会があり,これと考える会は重なっておらず,それぞれ別の独自性を持つものだ。登校拒否を考える会における,親の会が意味するものは,親が不登校の子供にどのように対応したらよいかを考え,また同じ悩みを抱える親同士が励まし合い,支え合っていくことだ。この不登校の問題についての認識は,アカデミアの渡部さん,「全国子供支援塾ネットワーク」,「家族ネットワーク」の中心となって活動する八杉さんにも共通している。それは,子供の一番身近な存在である家族,とりわけ親が「内なる学校信仰」を捨てなければ子供は学校と親の間でどちらにも行き場がなく苦しむことになるため,親の意識改革をすることによって,不登校の子供をとりまく環境から変えていかなければならない,というものだ。不登校の子供に対する親の認識はとても重要なものであるため,奥地さんがこの認識の下にシューレを開き,考える会の運動を続けてきたことはどちらにとってもプラスの効果があったのだろう。

V アカデミア・小さな学校・・学習障害児と共に

 1 アカデミアの小さな風景

 アカデミアは京王線の調布駅から15分程歩いた所にある。周辺は閑静な住宅街で,細い道を何度もくねくねと曲がると,そこに一軒屋と元スナックを改造して造ったアカデミアの1号館,2号館があった。1号館の前には「アカデミア・小さな学校」と書かれた小さな看板があり,そこには「学校法人東海学院・東海教育研究所」の名前もある。
 東海学院というのは東京の奥多摩にある専門学校で,渡部さんは以前ここで講師をしていたことがある。正式名称を東海学院文化教養専門学校と言い,専門部と高等部に分かれ,高等部の卒業生には大学入学資格も与えられる。アカデミアは,文部省からこの東海学院の分室として認められているので,ここに通う子供の通学定期や学割も出してもらえるそうだ。渡部さんの話では,東海学院に通う生徒には登校拒否や高校中退者が多く,理事長がそうした子供に理解のある人だということだった。この場所ももともとその理事長の所有のものを好意で貸してくれた所だ。また,アカデミアに3年いた後にその学校の高等部の3年に編入した子供もいる。
 扉に「1号館」「2号館」と書かれたプレートが掛かっているが,これと看板がなければ普通の民家と変わらないし,ましてや学習障害児を対象としたフリースクールだとは外から見ただけでは分からない。1号館のドアを開けるとそこはすぐに6〜8畳程の大きさの部屋になっており,細長い椅子と机が中央に,デスクと椅子が1組ずつ隅の方にある。小さな流し台もあり,壁にはおおきなホワイトボードが掛けられている。ここが主に子供たちと渡部さんらが活動する空間だ。
 初めてそこを訪れた時は,15才のA君が「こんにちは!」と明るく出迎えてくれた。私達が千葉から来たことを聞いて,千葉ロッテ・マリーンズの試合結果についていろいろと話してくれる,社交的で明るい子だ。A君は自閉症で,渡部さんらとは「飛翔」の時からのつきあいだ。週に5日,電車とバスを乗り継いで横浜から2時間かけてここに通い,アカデミアが休みの月曜日だけ公立の中学校に通っている。A君の宝物のノートを見せてもらうと,プロ野球,Jリーグの試合の日時,場所,対戦相手,得点の全記録が書かれていた。A君はこれらをすべて覚えている。必死で暗記したのではなく,そういう特殊な能力を持っているのだ。テレビアニメにも興味があり,キャラクターと声優の名前がずらりとすごい量で書かれている。A君は声優の名前であれば,どんな難しい漢字でも書ける。ところが,その漢字一つを取り出してしまうと,その読み・意味は分からなくなってしまう。覚えている情報はすべて記号化されて記憶にインプットされ,その記号をバラバラにしてしまうと分からなくなってしまうようだ。この日は1号館にA君一人しか来ておらず,演劇,美術教育を担当する教師の宇田川さんの授業だった。まず鏡を見ながら発音・腹式呼吸の練習をし,それから朗読の練習をする。A君はとても上手に朗読出来るのだが,そこに書かれている文意まではつかめない。このため,小学校の時は授業についていけず,ただ座っているだけになってしまったという。
 いったん外に出て隣の2号館へ行くと,そこは元スナックだったため,真ん中に妙に巨大なカウンターのような台が,その傍らにはマットが剥き出しになったベッドがあり,奥には流し台もある。16才のB君はいつもこの部屋におり,カウンターを机代わりにしている。B君は遅れの症状があり,いじめを受け中学校の間は不登校だった。その経験から対人恐怖になり,私達の年代ならそれほど抵抗はないようだが,同年代の子供に拒絶反応を示し激しいチックの症状が出る。窓から人が通るのが見えたり,扉が開いただけで過敏に反応する。そのため,他の子供がいる1号館にはいられないので,こうして2号館で渡部さんが一対一で対応することになるのだ。B君は月に1週間,群馬県の農場の「じゃがいも天国」にも行っている。そこでは農作業をやったり,家畜の世話をしたりいろいろな体験が出来る。
 ここに通う他の生徒は,遅れ,対人恐怖,緘黙,チック,強度の乱視から認知が困難になっている子など症状は様々で,生徒は全部で6才〜16才の8人だ。このうち3人はフリースクール飛翔の時から渡部さんらについてきた子供で,他は親から口コミなどで伝わった。2回目にここを訪れた時は,1号館にはA君の他に3人の子供と,この日お母さんと一緒に見学に来ていた幼稚園の女の子,そして新しく学生アルバイトとして雇われた女の先生がいた。この若い女の先生は子供たちと一緒に折り紙をしながら,なかなか話さない男の子にいろいろと声をかけている。初め,とても恥ずかしがりやのC君は,見慣れない見学者の私達や幼稚園生のDちゃんのいるこの部屋になかなか入ろうとしなかった。しかし,すぐにこの場に馴染んでしまったDちゃんに誘われて外でサッカーを始めた。Dちゃんは何も問題がない活発な子供に見えるが,幼稚園で他の子供がすでに覚えてしまった平仮名をなかなか覚えようとせず,やらせようとすると逃げてしまうという。幼稚園の中でも問題児で,幼稚園側からもチームを組んで研究すると言われているが,別に何もしてくれない。来年の小学校入学時に何も出来ないと,特殊学級に行くように言われかねないという。そのためお母さんが心配してここに相談に来たのだ。
 ここに通う日数は子供によって異なり,週に2日の子もいれば,3日,4日の子供もいる。その日数に応じて月謝も変わり,週に5日通えば月に5万円,週に2日なら2万円という計算だ。時間割りは火曜〜土曜で一応決まっているが,その日の気分で内容が変わったり,子供がやりたいことをやったりする。小さな学校ではこうしたことも可能だ。英・数・国・社の教科学習の他に,習字,美術,体育,そして演劇教科として朗読,演劇,野口体操がある。野口三千三氏が考案した野口体操は,心身の解放,緊張を和らげる効果があるそうで,B君の体の緊張やチックもこれでかなりとれたという。野口体操は近くの福祉センターを借りて,体育は調布市の児童館を借りてやっている。ここのスタッフは,教科を教える渡部さんと,美術・演劇教育の宇田川さん,週に1回体育を教えに来る学生と,最近新たに指導補助の先生として加わった2人の,計5人だ。この指導補助の先生は,求人情報紙で募集し,多数の応募者の中から面接で決まった大学生だ。アルバイトという形で,時給1000円で雇っている。火・水・土曜の午後を宇田川さんが,木・金を渡部さんが担当し,そのうち水曜の午後を女の先生が,木曜の午前を男の先生が補助する形で授業が行われる。土曜の午前は体育学部の学生による体育の授業だ。ここでは先生と生徒というよりは,子供から「ウダさん」「ナベさん」と呼ばれるようなアット・ホームな雰囲気がある。
正午きっかりにA君は突然今やっていたことをやめ,お弁当を取り出した。A君は時間にとても正確だ。午前の授業は9:30〜12:00 で,1時間のお昼休みの後,午後の授業は通常は3時に,体育と野口体操をやる土曜日は4時に終わる。授業が終わるとB君は自転車で40分かけて家に帰る。迎えに来た母親と一緒に帰る子もいるが,ほとんどが一人でここに来て一人で帰る。
 このアカデミアもまた,行政や企業からの財政的援助をいっさい受けていない。アカデミア開設時には,ボロボロの小屋同然だった所を,壁も天井も床も全部張り替えなければならなかったという。その建物の改造に 100万円かかったが,この資金は渡部さんの友人が出してくれた。以降少しずつ返して行き,55万円ほど返した所で相手がもういいと言ってくれたのでやめたという。B君のいた2号館は1994年の4月に買ったばかりだ。この元スナックも改造したいところだが,財政的に今の段階では無理だという。今では渡部さん,宇田川さんとも月5万円の給料が出るようになったが,はじめの2年間はいろいろな備品の出費などがあったので,無給で働いていたこともあったそうだ。開設後3年と,まだ間もないアカデミアにとって,運営のための資金をどうするかが大きな課題となっているようだ。

 2 学習障害児の立場

 「アカデミア・小さな学校」という名前は,「我々の教育こそ正統である」という自負と,子供たちから「小さな学校だね」と言われたことから付けられたものだ。渡部さんが「我々の教育こそ正統」と主張するのにはそれなりの理由がある。
渡部さんらが「飛翔」を辞めた原因は,教師側と経営者側の意見,方針のくい違いだった。経営者側,つまり学習障害児親の会の母親たちの要望は,LD児教育を充実させたいということだった。そのために,子供たちに認知教育をして欲しい,そこで働いていた大学生をアメリカの学習障害児専門のカレッジへ留学させたい,といった要求が教師である渡部さんらに出されたという。この留学の話は,資金的に困難だったことと,「先生に行かれては困る」という子供の母親の反対があったことから,子供の親が教師側につく形で対立の原因になった。
また,教育方針の相違はLD児の位置づけの難しさとも関係する。LD児は言わば健常者と障害者の狭間にいる「能力的弱者」だ。読む,書く,計算,図形の認識などで困難を伴うと言われるが,情緒障害や軽度精神遅滞との境界は曖昧だ。その原因も中枢神経系の機能障害と推定されているだけで,まだはっきりとした定義づけがされているわけではない。アカデミアや飛翔は対象の子供を「学習障害児及び類縁の者」としているが,実際に集まってくるのは「類縁の者」に当たる子供がほとんどだと言う。

渡部「私達は,臨床といっても研究者じゃないですから,子供たちがそういう状態になっているのを何とか能力を引き出して,発達出来る部分があれば発達させようっていう立場の者ですから,そこらへんの分類はあまり自分たちではしないんです。そこが親の会ともちょっとずれたところです。親の会は認知教育研究所を設立したいとかね,何か学問的にしっかりさせたいっていう願いがあって。というのは,自分たちの子供をそういうことで認知してもらいたいっていうのがあるんでしょうけど,ちょっとその辺の考え方のずれもありましたし…。だから,そこら辺の区別っていうのは難しいところがありますよね。」

現場で直接子供たちを見ている教師としては,それぞれ症状の違う子供に,その状況に応じた対応が必要だと感じているようだ。また,「子供を分けて,病名を付けるのが私の仕事ではないので,そういうことはドクターの仕事ですから,分かりやすく言っているだけで,ナニちゃん,カニちゃんっていう固有名詞がある子供達なんです。」という言葉には,障害と見ることで子供を区別したくない,という意識があるように思える。

宇田川「今だに戸惑いがあるのはこの子たちが障害者,障害っていう言葉で言っていいの  かっていうものがある。」
渡部「全然,障害って思ってないですよ。」
宇田川「だから学習障害っていう言葉を使うことすらすごく意識しちゃって使っているん  だけどね。他に言葉がないよね。」

 学習障害児親の会は,健常者と障害者の狭間にあるLD児の立場を確立したい,そのことによって,LD児の社会的認知を得たいという意識から,LD児教育の専門化を求めているようだ。その一方で,渡部さんらは,様々な症状の子供を学習障害という枠で括ることの難しさを,教師の立場から感じている。このどちらが良いと一概に言えない。自分の子供が学習障害児だと認識している親が,より子供に合った方法で教育をさせたいと思うのは当然だ。しかしLD児を対象とした専門的な教育を行おうとすれば,LD児の基準を設け,きちんと定義することも必要になってくるだろう。そうなると,例えば,学習障害ではなくても学習の遅れている子供や,低学力の子供までも広くLDというレッテルが貼られてしまう危険性もある。教え方次第では分かるようになる子供に対しても,LDと言ってしまうのは早急過ぎるという面もある。このようなLDをめぐる困難な状況の中で,フリースクールという組織としてやっていく場合に,そのような教育方針の違いがフリースクールの経営の障害となってしまったのだ。現時点では,LD児をとりまく環境は医学的にも教育制度的にも不明瞭なままだ。この状況がフリースクールで活動をする際にも,問題を困難で複雑なものにしていると言っていいだろう。★03

 3 アカデミアのジレンマ

 アカデミアは現在,他のフリースクールや子供支援団体などとの交流,ネットワークは持っていない。また,公教育に批判的な立場を取りながらも行政への働きかけは特に行っていない。というのは,一つにはそうした活動が経営的にも時間的にも,また年齢的にも不可能な現実があるからだ。子供たちは,はっきり障害とは分からないにしろ,学習活動,人とのコミュニケーションの持ち方において何らかの困難を抱えており,アカデミアには彼らを支えてくれる人,彼らの活動を補助してくれる人を求めてやってくる。一人一人の子供にきめ細かく指導し,丁寧に対応していればそれだけで一日が終わってしまう。また,同年代の子供が苦手だったり,おとなしい子は人数が多い所ではいられなくなってしまうため,場所的にも不可能だが,あまり人数を増やすわけにもいかない。生徒からの収入を期待できなければ,経済的な援助でもないととても活動を拡大していく余裕はないのだ。理想としては,ネットワーク的な活動に関わりたいという気持ちがあるものの,動きがとれず,「今はここで子供を受け入れているのが精一杯」の状況だ。渡部さん,宇田川さんは,こうした活動をとても悲観的に見ている面もある。

渡部「フリースクール運動については,私は,冷やかというか何というかペシミスティックなんですよ。いろいろなこと経験してますから。… だから,もっと理想主義的な人が集まってやったほうがいいと思います。」

−「教育を変えていくには…もっと草の根的な,直に(問題に)接している人達から立 ち上がらないと,結局は変えていけないのでは。」
宇田川「立ち上がってもどうにもならない。悲観論なんだけどね。もう私たちあまりにも  歳とりすぎちゃった。体力もね。」

 彼らの中にこのような意識があるのは,確かに渡部さんの言うように,飛翔で苦い思いを味わったような,いろいろなことを経験してきたこととも関係するだろう。しかし,それ以上に深い悩みから来るもののように思える。
 アカデミアに通う子供はLDであるだけでなく,不登校でもある。つまり,LDであるために勉強が分からなくなっているならば,彼らの苦手な部分を補う形で指導すればよいのだが,実際にはこれに「いじめ」の問題がからんでくる。もちろん学校ではLD児のための対策が採られていないために,授業についていけなくてアカデミアに来るようになった子供もおり,このために親が立ち上がって飛翔のようなフリースクールをつくることになったのだが,それ以前にひどいいじめを受けて不登校になっていた子供は多い。つまり,LD児を対象としてフリースクールをやっていくことは,いじめの結果としてLD児の隔離教育になってしまっている状況でもあるのだ。

−「同年輩の子供と一緒にいることもしないと,結局,本当に不適応になってしまうの では。」
渡部「それで不適応になっちゃった人達なんですよね。あのもう,はみだされたり,殴られたり,打たれたり,いじめられてたりして。だから,初めっから隔離教育してたわけじゃないんですよね。そういうことが起こってここに来るという状況で。…だから,抱え込みはしないんです。」

 この現状は,公教育を拒否した子供たちを助けてくれる機関としてのフリースクールが存在する限り,国が公教育では扱いきれない部分を民間に依存している構造であり,経済的援助もせずに押しつけてしまっている状態だと言える。そしてフリースクールに関わり続けることは,結局行政を助けることでもある。宇田川さんはこの矛盾した構造の問題で深く悩み,「ジレンマに陥ったこともある」という。

宇田川「本来だったら僕がやっているようなことで,僕の思っている理念なんてものは公  共のやることじゃないか。公立,私立共にね。… それ自体に矛盾があるんですよね。  今,僕等がこういったことをやっていることはその矛盾をあえてやっている。本来だ  ったらこういうことはやっぱり学校の教師がね,きちんとそれだけの勉強をして,行  政そのもののあり方を引っくり返さなくてはいけない。」

 この問題にはLD児の微妙な立場も関わってくるだろう。LD児の場合,子供が公教育の場に合わないのならば,別な形の民間教育を選べばよい,と簡単に割り切れる問題ではないからだ。渡部さんは,以前にLD児の「通級制度」をつくって欲しいとか,不登校の子供の行き場をつくって欲しいといった,公教育の改善を行政に申し入れたことがある。通級制度というのは,普段は普通学級で学び,LD児の不得手な部分だけ他のクラスでそれぞれサポートを受けるというものだ。このような体制を望みながらも,「行政に任しておいては間に合わない」からフリースクールを始めたのだ。

渡部「行政に訴えても何でも,それが浸透していくのにものすごい時間がかかりますよね。文部省が研究所つくったとか,国立久里浜病院で研究の組織つくったと言っても,それが一般的に降ろされてきて普通の学校のなかで,そういう(学習障害の)子と普通の子と言われる子の通級制とかね,例えば美術や音楽は一緒にしても,数学の遅れる子には別にクラスをつくるとかね,年齢とかに関係なくね。そういう組織がいつになったらできるかって言ったら随分先のことですよね。だから,やっぱり待てないってのが親の念ですよね。」
宇田川「心苦しいですよ。」
渡部「大体お金がかかるから。心苦しいですよ。うち,あの,貧乏人じゃ来れないですよ,  はっきり言って。」

 本来国が,行政がやるべき所を自分たちが,民間でやっているという意識はとても強い。それだけに,子供の家庭から月々の月謝をもらうことも気持ちの面で割り切れない部分があるようだ。だから,もし教育の現場が改善され,LD児への対応がなされるようになれば,宇田川さんの言う「矛盾」がなくなれば,このようなLD児のための場所は必要ないものだと考えている。

おわりに

 現在,市民運動から始まったフリースクールの活動は,まさに「フリー」の名前の如く
全国各地で実に多様な動きを見せている。学習障害児を対象としたフリースクールはアカデミアばかりでなく地方にも幾つかあり,また障害児と共に活動をする「クッキングハウス」といった場もある。また,今回この報告書では載せられなかったが,松戸市の「フレンドスペース」は,民間のカウンセリング専門の機関である「東京メンタルヘルスアカデミー(TMA)」を母体とし,不登校のみならず,青年期の引きこもり,就職拒否,中高年の「定年ショック」といった様々な心の悩みに対応している団体だ。このように,フリースクールがどのような経緯で創られ,何を目的とし,誰を対象としているか,また経営方法や方針,規模の大きさは個々のフリースクールによって全く異なっている。そのため,フリースクールの持つ性格も全体として一様ではなく広がりを持っており,それぞれが個性ある活動を行っている。フリースクールとは,多様なニーズに応えるために,様々な形で教育を試みる動きから生まれたものであり,その「多様性」によって特徴付けられると言えるだろう。
 そして忘れてならないのが,このフリースクールをめぐる動きが不登校問題抜きにして論じられるものではなく,背景には根深い教育の問題があるということだ。多くのフリースクールが,不登校の子供の居場所という現実的な必然性から生まれた機能と共に,意識的にしろ無意識にしろニイルやシュタイナーといった教育家の理念を体現するような,自由・自主を重んじる教育を実現する場という機能を有している。Uで挙げた「教育ルネッサンス93」で持ち上がった「認可か無認可か」という問題からは,こうした新たな教育の試みをフリースクールという認可の枠外で行うだけで良いのか,という批判が読み取れよう。この問題に対して,民間としてフリースクールは何が出来るのだろうか。
 例えば東京シューレの奥地さんは,この活動を通して教育の選択肢を増やしていこうという意識がある。それは,物理的な空間としての教育の場を増やすだけでなく,公教育の学校にこだわらない考え方,生き方の選択肢を増やし,公教育以外の教育を受ける権利を広げることを意味する。奥地さんのこのような意識は,シンポジウムで発言したように,「どんないい学校でも合わないと思う子はいる」のであり,子供の個性が多様である以上,「子供の受け皿,居場所は多様な形であちこちにある方がいい」(奥地[1989:217])という考えから来るものだ。つまりこれは,既存の公教育だけが絶対視されがちな社会の中で,学校に行かなくてもこんな生き方が出来る,という学歴偏重社会に対する一つのアンチテーゼとも言えるものではないだろうか。
 そして重要なことは,アカデミアの渡部さんが言うように「火をともすこと」,つまりこの活動を実践し続けることである。フリースクールはそれぞれが個別の問題を抱えているとしても,やはり現実的に大きな壁として直面するのは資金をどうするかという問題だろう。どんなに素晴らしい理念を持っていても,実際に一つの学校を経営していくのであり,資金や経営方針といった様々な問題にぶつかりやむを得ず閉校してしまうフリースクールは実際に少なくない。しかし,フリースクールはその存在そのものによって不登校の問題,教育の問題を最もリアルな形で提起し,社会に問いかけていくことが出来る。この意味において,東京シューレが多くの障害を越えて10年間活動を続けたということは大きな意義があると言えるし,その実績によってフリースクールの可能性を広げるという重要な役割を果たしたと言えるのではないだろうか。



★01 シュタイナー教育については西川編訳[1992:231-276]に文献リスト,各国のシュタイナー学校のリスト等が掲載されている。日本国内の団体としては「日本人智学研究会」「日本ルドルフ・シュタイナーハウス」(『別冊宝島』111:259-260 に紹介)等がある。ドイツでシュタイナー学校を体験した親子による報告として子安美知子[1975],子安文[1986]。他にBrugge[=1986],等。世界のフリースクールについて,大沼編[1982a][1982b],堀編[1985]。アメリカのフリースクールについて コゾル(Kozol)[1982=1987],モンゴメリー&コーン[1984]。イギリスの「サマーヒル」について坂元[1984]大塚[1987]。フランスの「フレネ学校」について原・原[1990a][1990b]。ドイツについて栗山[1995]。ニイルの著作の翻訳もいくつかある(徳岡[1994]を参照のこと)。民間団体として「ニイル研究会」(『別冊宝島』111:259 に紹介)。他に「フリースクール研究会」「東海フリースクール研究会」「関西フリースクール研究会」「熊本フリースクール研究会」(『別冊宝島』111:261 に紹介)等がある。雑誌に掲載された報告として高杉[1985],山崎[1991]。『別冊宝島』111:262-271 には他にも多くの本が紹介されている。また河合編[1991]には不登校児を受け入れる様々な場が紹介されている。
★02 ホームスクーリングについての文献としてホルト(Holt)[=1984]。
★03 文部省でもこのLDの問題に取り組む動きが出ている。文部省は95年度からLDに対する教師の理解を求めた啓発リーフレットを作成し,小中学校に配付する予定だ。また,島崎和男・初等中等教育局特殊教育課長は「通常の学級で子どもの特性に留意した教育をするとともに,専門教師のいるLD学級をつくり,必要最低限の期間通う「通級」も導入したい」と話している(『朝日新聞』1994-12-5:8)。現場での具体的な対策,対応まではすぐには望めないにしても,これによって社会的にもLD児の存在が知られ,認められていくきっかけにはなるのではないだろうか。

文献(一部)

大塚 千野 1987 『サマーヒル少女日記――やっぱり自由が好き!』,晶文社,191p.,1200円
岡村 達雄・尾崎 ムゲン 編 1994 『学校という交差点』,インパクト出版会,310p. 2730円
坂元 良江 1984 『世界でいちばん自由な学校――サマーヒルスクールとの六年間』,人文書院
徳岡 輝信 1994 「フリースクールの現在」,岡村・尾崎編[1994:86-113]
堀 真一郎 1978 『こんな学校もある』,文化書房博文社
――――― 1984 『ニイルと自由の子どもたち』,黎明書房
堀 真一郎 編 1984 『自由を子どもに』,文化書房博文社
――――― 1985 『世界の自由学校――子どもを生かす新しい教育』,麦秋社


REV: 20160425
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