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報告書への招待


last update: 20170425


序章

報告書への招待
                                                                         Amano, Masako
                                  天野 正子

 いま,ここに報告書『NPOが変える――非営利組織の社会学』をお届けする。千葉大学文学部行動科学科社会学研究室が,1994年4月から95年3月にかけて実施した社会調査実習の記録である。

 社会学研究室では3年次の必修科目として,全員が「社会調査実習」の履修をする。今年度も社会学専攻の3年生23人が参加し,それぞれがこの報告書のためのレポートを提出した。この調査を担当するスタッフとして,立岩(社会学研究室助手)と天野(社会学研究室教授)が学生とともに調査に参加し,報告書づくりの苦労をともに経験した。

T 社会調査実習のねらい――「体験知」の深みへ

 学生たちにとって,社会調査実習はどのような意味をもちうるのか,どのようなものであることが望ましいのか――。この点についてはすでに,奥村氏(社会学研究室助教授)が昨年度の報告書『障害者という場所・・自立生活から社会をみる――』で説得力のある回答を試みている。因みにこの報告書は社会学研究室における社会調査実習の「密度の高さ」を示しており,是非,一読をおすすめしたいと思う。今回,調査を開始するにあたって,私たちはこの原点にくりかえし立ちもどることになった。
 奥村氏は二つのことをあげている。一つは調査する側,いいかえれば学生にとって,新鮮な発見や視点の変化があること。ただし,それは,単に調査の「対象」についていくつかの新しい知識が加わったということ,いいかえれば「概念知」の量の増加を意味するのではない。「対象」とむきあうことで,自分のそれまでのものの見方,考え方,常識が揺さぶられ,問いなおされ,さらには組み替えをせまられる。そういう意味で自分のからだを一度くぐりぬけたうえでの発見や変化,いいかえれば「体験知」をさしている。
いま一つは,調査される側にとって,その調査がなんらかの意味をもつこと。社会調査は,被調査者の協力なしにはなりたたない。いいかえれば調査は調査を受ける側の負担を前提になりたつ行為である。とすれば社会的実践としての調査は,調査される側にとってなんらかの意味をもつものでありたい。そこから調査のアウト・プットを被調査者に,広く「社会」にフィードバックすることが期待されることになる。調査する側には,調査主体としての社会的責任がともなうのである。
 今回,社会調査実習をすすめるにあたって,私たちの拠り所になったのは,こうした奥村氏の発言である。私たちは,この発言のなかに社会調査実習の契機をさぐり,そこから豊かな水脈を汲みあげていく方法をとりたいと思った。

U テーマの設定・趣旨

 この2つのねらいを踏まえるとき,私たちは何を主題化できるだろうか――。学生たちの問題関心をめぐるアンケート調査を行い,何をしたいかについて議論を重ねる過程で次第に明らかになったのが,「NPO」(非営利民間団体)の活動と,それが現代社会にもつ意味ないし可能性についての接近であった。
フリースクールや障害児・健常児の統合教育,高齢者介助サービスの供給活動,「会社人間」や「主婦」のアイデンティティなど実践的な問題に関心を抱く学生の少なくないことが,この主題の選定に大きく影響した。このテーマなら,それは学生たちの多彩で多様な関心を吸い上げ,包括することができる。また,立岩・天野の両者の問題関心もそこに働いていたように思う。立岩は1986年以降,障害者の自立生活運動の調査に深くかかわり,彼らの権利擁護をねらいとする民間組織の活動の意義について研究・考察を続けてきた。天野もこの十年来,生活クラブ生協のワーカーズ・コレクティブ(労働者サービス協同組合)という非営利的な市民事業をとりあげ,それが,市場経済社会の一要素としてではなく市民社会の構成要素としてオルタナティブな「働き方」を創出しうるかの可能性と条件について研究し,考察してきた。

 NPO(Non Profit 0rganizasion)とは,もともとアメリカ合衆国で非営利団体としての活動が認められ税制上の特典をうけた組織をさす名称として使われてきた。日本社会では「市民公益活動」組織(ただし,日本では財団や社団などの公益法人にならないかぎり減免税されない)がこれにあたるだろう。それは,「多くの市民の自主的な参加と支援によって自立的な公益的活動」をめざす組織のことをいう。
 一方で企業と行政(国家)による管理システムが高度化し,他方で人びとの私生活志向(privatization)がすすむなかで,1980年代半ば頃から市民による公益活動の流れが起こり,活性化しつつある。それが「新しい」市民活動と呼ばれるのは,これまでの企業−行政に対する批判や要求,陳情,請願といったタイプの市民活動ではなく,市民一人ひとりが自分は何ができるのか,何か自分にできることはないかを問い,意思ある人びととの連帯を求めて積極的に「社会」にかかわっていく点に特徴をもつからである。いま,福祉や教育,まちづくりや環境,人権擁護,国際協力など,政府や自治体,企業の手がとどきにくい分野で,市民主体の多彩な活動が展開されている。
 そのNPO活動をめぐって学生たちと議論を重ねるなかで次のような問題意識が共有されることになった。
@団体の活動実態,活動の契機や論理,組織のあり方,行政との関係,他団体とのネットワークはどうなっているのか。団体の自立性はどのように形成されていくのか。いま,団体が直面している問題とは何なのか。
A活動の担い手はどのような人びとであり,その人びとのヴォランティズム(主体性や能動性)がどのように形成されつつあるのか。とくに企業人や「主婦」はこうした活動を自らの生活のなかにどのように位置づけているのだろうか。
B活動を維持・継続していくための,いわゆる「ヒト・情報・資金」の供給はどのようなしくみと基盤のうえに成りたっているのか。とりわけ資金づくりはどのようなしくみになっているのか。
Cそうした活動や運動を登場させる現代「社会」は,どのような特質をもっているのだろうか。
D「国民」に対置される「市民」は,もともと欧米社会に起源をもつ言葉の翻訳語である。「市民」と称する活動が多発しているのは,欧米に起源をもつ「市民」という「実体」が日本社会に根をおろしはじめたことを意味するのだろうか。市民意識とは具体的に何をさすのだろうか。市民社会であることの条件は何だろうか。
E先進国といわれるアメリカのNPO活動の実態はどうか。どのような歴史的・文化的背景から登場し,定着したのだろうか。
FNPO活動の制度化(法制化)をめぐる問題は何か?いま,法制化の動きの背景にあるのは何なのだろうか。
 因みに95年1月におそった阪神大震災は,こうした問題意識についての議論や考察を深める上で一つの契機となったように思う。それは,単に災害問題や「危機管理」体制の問題としてではなく,市民社会のあり方と再編について,また公と私の関係,あるいは「豊かさとは」といった価値観まで含め,考えさせてくれたからである。ここでは3点のみあげておこう。
 第一に,行政という公への帰属が,けっして万能な生活を私たち市民に保証するものではないことをはっきりわからせてくれた。自治体は不特定多数を対象にあくまでも「公平」をめざさなければならない。したがって特定少数を相手に,できることからやっていく市民の自発的で素早い救援活動が被災地の人びとから高い評価を受けた。何か緊急の事態が起こったときに,行政に「お伺いを立てることなく」一人ひとりの市民がいち早く立ち上がり独自なネットワークを形成していくことの意味は,逆説的にいえば「緊急時」でない日常的なNPO活動や,緊急でない自発的意思のもつ意義について考えさせてくれたように思う。
 第二に,阪神大震災の大きな収穫は日本全国から馳せ参じたボランティアがこれまでにない活躍をみせたことにあるが,問題は,そのボランティアの盛り上がりを行政が実際の救援活動にうまく接合できなかった点である。行政がこれまでの枠組み(ルーティン)に沿って対応しようとしたのと対照的に,ボランティアの人びとはルーティンをこえ,法のないところに自ら秩序を生み出す「潜在的な自己権力」(橋爪大三郎「下からの意志で日本再組織を」『朝日新聞』夕刊,1995年3月7日)であったからである。また,ボランティアの自生的な動きをコーディネイトするしくみの不在も,敏速な取組みをさまたげる一つの要因となった。そこでは市民社会における政府(国家)と住民・市民の関係のあり方が,さらには「主権在民」の実質があらためて問われているように思う。
 第三にボランティアの人びとのボランティズム(主体性・能動性)について考える機会となった。これまでも政府サイドから高齢社会を支えるボランティアの必要性が強調されることがあっても,総じて不調に終わったのは,市民が上からのボランティア育成策に何となく功利的な作為を読みとっていたからだろう。ボランティアの活躍を「私利私欲にたつ戦後民主主義の終わり,公共性にたつ新民主主義の始まりを画するもの」とみる意見(そこでは私利私欲と公共性が対立させられている――山口二郎を代弁者とする)と,「個人の好み,自由意志という私利私欲に立脚した公共性」とみる意見(私利私欲と公共性は対立していない――加藤典洋)が対立するなかで,私たちは活動の担い手の内面世界にできるかぎり接近するなかから「個」と公共性の問題について考えることの大切さを学んだように思う。

V テーマを深めていくうえでお話を伺った人びと

 調査を進めていく中,さまざまな分野で実際に活動されている方々に大学にお越しいただき,お話をうかがった。その講話のいずれもが,NPOの活動に対する以上のような私たちの問題関心を深めるうえでおおいに役にたった。以下にお名前をあげ,心から感謝の意を表したい。

@杉本明行さん・中田美紀子さん――ボランティア活動の資金源,活動を通して個人として学んだこと,ボランティア活動と行政の関係について貴重な示唆を得た。とりわけボランティア活動の担い手として女性たちの直面している経済的自立と自己実現のディレンマやボランティア団体の行政に対する距離のとりかたについてのお話は,この調査の方向性に重要な視点をあたえてくれた。また,人のためにやるのではなく,自分のためにやっているという「私」の強調は,あらためて活動の担い手の意味世界に対する新鮮な問題関心を呼び起こした。
A浅沼美香さん――「不良少年」の子どもたちの仕事場としてスタートしたユーズリサイクルセンターの事例は,その活動を継続していくために,単なる「自己満足」としてのボランティア活動としてではなく事業として成立させていくことの大切さを示唆している。浅沼さんのもう一つの活動分野であるリサイクル石鹸協会(廃油を使った石鹸づくり)の実践事例は,合成洗剤による汚染のすすんだ手賀沼を少しでもきれいにしようという住民の意識からはじまったささやかな試みが,いま,フィリピンやモンゴルから問い合わせがくるまでになっており,あらためて活動の持続とそれを保障する事業化の大切さを教えてくれた。
B渡部志摩子さん――歴史学を専攻された渡部さんはフリースクールの歴史(世界において,日本において)と,ご自身が創設された学習障害児のための「アカデミア・小さな学校」の現実について紹介された。行政がやってくれるのを待つのではなく,意思ある人がやらざるをえない切実な教育現場の状況や,公的援助がなく運営資金を生徒の授業料に依存することから,結果的に経済的なゆとりのない家庭の子どもにはこうした教育の場さえあたえられないことの矛盾を語られた。また,民間教育団体の社会的認知のために行政や文部省に働きかけていくにも,日常的な子どもとのかかわりに追われ,時間的な余裕のない状況や,そうしたなかでもともかく民間の「小さな灯」をともしつづけることの意義を話された。
C今田克司さん――アメリカ・カリフォルニア州政府に公認された非営利団体,「日本太平洋資料ネットワーク」オークランド・オフィスの事務局長である今田さんからは,NPO活動を必然的に生み出すに至ったアメリカ社会の特性やNPOの組織のありかた,人種のみならず地域を構成する多くのマイノリティのための生活自立援助などの活動の実態,アメリカのNPO活動を活性化するうえで果している租税控除制度についての詳しいお話を伺った。また,NPO活動の支え手・コーディネーターを養成するためにNPOと高等教育機関が連携していることなどのお話は,日本のNPO活動の将来を占う意味で,きわめて示唆的であった。

W 調査報告書の構成と内容

 本調査報告書は6部から構成されている。詳細は報告書を読んでいただきたいが,膨大な報告書を読む一つの手がかりとして,ここではそのアウトライン(若干の感想を含めて)を紹介しておこう。

 1 アメリカのNPO・日本のNPO

 第T部では,その活動の幅と厚みという点において「先進国」であるアメリカのNPO活動の現実と,活動の継続・維持基盤としての「ヒト・情報・資金」の供給のしくみが考察されている。さらにアメリカとの対応で日本の市民公益活動の制度的基盤の不備や資金難,その背景要因が明らかにされる。
 アメリカのNPOはその数約 114万にのぼるといわれるほど社会的に一つの大きなセクター(政府・企業と並ぶ第三セクター)として機能しているのはなぜなのか? その理由として,一つは非営利団体としての活動の実態が認められれば減免税されるという法制度上の位置づけがあげられる。いま一つとして,アメリカでは政府(国家)よりも先にコミュニティ(市民社会)が存在していたという歴史的背景から,政府は小さいほどよいという「小さな政府」が理念と現実の双方において実現しており,そのことがNPO活動を活性化してきた要因としてあげられる。とりわけ多人種多民族性を特徴とするアメリカ社会では,政府による画一的な政策が白人中産階級にとって有効でありえても,マイノリティ・グループにとっては必ずしもそうではなく,そうした「やむにやまれぬ」状況がNPOの登場を促進したといわれる。ただしそのアメリカでも,いま,NPOのサービスをより多く享受できる人びととそうでない人びとの格差が生まれており,政府からもNPOの提供するサービスからも見捨てられた「社会的弱者」の存在が一つの現代的な問題となっている。
 ひるがえって日本社会をかえりみると,政府が規制や行政指導という形で製造・流通・金融などをコントロールしている点からいえば「大きな政府」であり,一方,市民が生活するうえで本当に必要な,政府によるサービスを享受しているのかの点からいえば,明らかに「小さな政府」である。そうした「社会」のなかでNPOの活動を活性化していくためには,法人化を容易にしたり税制上の特典を与える「NPO基本法」などの制定も大切だが,それ以上に重要なのは,どこまで政府のやるべきことであり,どこまでを市民活動でやるのかという「線引き」の問題である。ここで明らかにされたアメリカのNPO活動の現実は,さまざまな形で日本社会とそのなかでの市民活動のあり方について考えさせてくれるだろう。


 2 企業の社会貢献,社会貢献における企業人と主婦

 第U部では,企業や企業人の社会的貢献活動の現状と,そうした活動が要請されはじめた背景が明らかにされる。さらには企業人にとってボランティア活動のもつ意味や位置づけの特徴をはっきりさせるために「主婦」との比較が試みられる。
 80年代に入る頃から,企業にも,海外進出先の地域との摩擦などをきっかけに,企業活動が地域社会をはじめとする外部セクターとの良好な関係抜きには継続しえないという「反省」が生まれ,社会貢献活動に取り組む企業が登場する。と同時に,自分の価値観と方法で社会にかかわりたいという「個人」が企業共同体から析出されはじめた。しかし,報告書は,なによりも利潤追求を第一義的な目的とする企業がそのイメージ・アップのために「企業市民であれ」という「必要性」を抱いても,そこには「必然性」はなく,企業の社会貢献にはそれにともなう見返りの存在が必須条件であることを指摘している。そのことは,「一年ブランクがあったんだから,がんばりたまえ」「一年行ってきたのだから,企画会議で新しい発想でるだろう」など,ボランティア休職制度を利用した社員に対する上司の発言からも伺われて,興味深い。
 組織としての企業の社会貢献活動がその程度にとどまっているのに対して,個々の企業人の意識は思ったより深いところで変わりつつある。この報告書では企業人への克明なインタビューを行うことにより,@企業人をボランティア活動へ向かわせる「きっかけ」,Aボランティア活動を「続ける/続けない」の分岐を生み出す要因という二つの面が考察されている。結論的には,人びとをボランティア活動に向かわせる「きっかけ」は個人の関心・興味・好みであり,その活動を続けるかどうかは活動経験の質であるという。この最初の「きっかけ」の関心・興味・好みそれ自体がどのように形成されていくのかは,おそらく個人のパーソナル・ライフヒストリーをたどる過程で,より明確になるにちがいない。
 ボランティア活動の意味世界を,企業人と「主婦」で比較した「レジャーとしてのボランティア/生活すべてがボランティア」という報告も興味深い問題を示唆している。企業人のボランティア活動は,その基盤が「仕事」にあるゆえに非日常的な「レジャー」的要素をもつ。一方,「主婦」の場合,生活すべてがボランティア活動のようなものであり,生活とボランティア活動との境界線は引きにくい。企業人の場合,ボランティア活動の「無償性」は,「仕事」ではない「自由意思」にたつ行為の確保とタイアップしてしている(「趣味だからお金をもらわない」)。対照的に「主婦」の場合,主婦の「仕事」とされている家事労働の曖昧さから,そこには有償であれ無償であれ,ボランティア活動の位置づけに苦慮する姿が映し出されている。「主婦とボランティア活動」は今後も検討を深めるべき興味ある課題といえるだろう。

3 新しい働き方の模索――ワーカーズ・コレクティブ

第V部では,80年代に登場してくる自主管理型の新しい働き方,ワーカーズ・コレクティブ(以下,ワーカーズと略す)やその連合会の現実と課題が語られる。ワーカーズは,営利を否定しないが,それを第一義的な目的としない市民事業をさす。生活クラブ生協を基盤としたワーカーズの運動は,「専業消費者」→「脱消費者」→「生活者」→「生活者として働く」ことへの展開過程としてとらえることができる。いいかえればこの運動は,生活クラブの共同購入活動における「よき消費者」こそ「よき生産者」になりうるという「信念」の実践とみてよい。
「生活者として働く」とは,理念的には@競争よりも協同の原理を重視し,自主管理型の労働の可能性を追求する,Aローカルな経済自治の空間をつくり「地域自治社会」を形成する――ことを意味する。しかし,理念が輝かしければ輝かしいほど,越えなければならないハードルは高い。
報告書は,ワーカーズが直面している問題を具体的に綿密に語っている。労働がもたらす社会への貢献(公益活動の側面)という意味でワーカーズは「志」をもたねばならない。一方,オルタナティブな働き方として社会的認知を得るためには,市場経済のなかで一定の事業実績をあげ,コレクティブに参加する人が食べていく条件がなければならない。つまり,「志」と事業実績という二つの異なる価値尺度のなかで最適バランスをどうはかっていくのか?という問題がある。加えて,その担い手のすべてが「主婦」であることが問
題を複雑にしている。殆どのワーカーズが,いわゆる「100 万円」のカベを突破するに足る事業実績をあげていないのは,ワーカーズの事業体そのものの問題なのか,あるいは「主婦」が税制上扶養家族という範囲の労働対価にとどまろうとするから,それが事業展開にブレーキをかけているのか,それとも法整備がないために任意団体にとどまるをえない「制度」の問題なのか――報告書はこうした問題を考える素材を提供している。
ただし,多くのワーカーズのなかで例外性を誇っている東京・町田市の「凡」の事例報告は興味深い。どのような条件(たとえば経営実務の習熟,ある程度の効率性原理の導入,事業に対する長期的な計画の徹底)がどのような方法で達成されたときに,メンバーが税制上の扶養枠を越えることができるのかを,ここから読みとることができるだろう。
 もうひとつ,ワーカーズは「人々の暮らしに有用な仕事を創出することにより,地域を変える」というねらいをもつが,「凡」の事例はその現実的なステップを具体的に提案している点でも,おもしろい。地場の生産者との提携(地場の農産物の完全使用)により第一次産業でもなく第二次産業でもない,第一・五次産業として加工事業を展開する「凡」の事例は,単に個々のメンバーが地域で働くことの意味づけをするというだけでなく,ローカルな経済自治の形成にむけての一つの提案とみてよい。町田市の農地で生産される素性のわかった原材料を加工する→それを住民の食卓にとどけるという地域内流通の流れである。この流れを定着させることによって町田市に農地を残し,自然を守り,町のなかに売手と買い手のふれあいの回路をつくっていく。そこには一つの自治共同体形成の可能性の芽がある。

 4 住民参加型福祉活動

第W部では,住民参加型在宅福祉サービス活動をめぐる問題と民間団体としての社会福祉協議会の現実が明らかにされる。
 この20年の間に高齢化に対する行政の対応策の理念は,「日本型福祉社会論」から「在宅福祉論」へと大きく変化してきた。その在宅福祉論の裏付けとして,政府はホームヘルパー増員策を打ち出したが,その現実性への疑問は大きい。一方,都市社会が「成熟」すれば,福祉を貨幣との交換で「買う」時代がやってくるとされるが,ますます高価になる市場サービスを誰でもが簡単に買えるわけではない。しかもそうしたサービスの多くは規格化されており,個別的な存在である高齢者に個別的に対応するものにはなっていない。公私のサービスのいずれにも老後の安心を託せないとすれば,「もうひとつのサービス」(共的サービス)を住民が自らの手で作りだすほかはない。
 ここでは,千葉県でのサービス協同組合やたすけあいワーカーズの事例を踏まえ,住民が自らの責任で福祉に「参加」するとはどいうことなのか,その福祉活動が有償であることの意味,参加型福祉のしくみはどのようなものでありうるのか,より多くの市民が参加しやすいしくみをどうつくっていくのかが検討されている。そしてここでもまた,@住民参加の福祉活動がややもすれば安上がり福祉となり,家事援助サービス領域での女性の「チープ・レイバー」を促進することになりかねないという問題,A「プロ」のヘルパーによって対応されるべき公的責任との線引きの問題,B住民参加の「お互いさま」の関係づくりのなかで男性がつねに援助される側にたち,援助する側に立っていないという問題が指摘されている。
 確かにそうした一面のあることは否定できない。しかし,さまざまな課題や問題が残されているものの,住民セクターのこうした活動が,一方で行政によって対応されるべき公的責任を明確にさせ,その積極的な対応を促す原動力となり,他方で市場中心のサービスの歪みをただしていく契機となるうえで期待される役割は大きい。そうした力量をどこまでつけることができるのか――・は,まだこれからの課題である。
 また,戦後,GHQの指示により政府主導で形成された社会福祉協議会が,理念としての「民間」性と組織体質としての「行政」性の間で揺れつづけ,実質的な機能を果たすことなく名目だけの存在になっていることは,大きな問題といえるだろう。

 5 まちづくり

 第X部は,世田谷区を事例に,住民主体のまちづくりを支援する民間非営利組織「まちづくりセンター」「まちづくりファンド」「まちづくりハウス」の役割と,これらの民間組織がどのように住民の合意を形成していくのかという合意の手法を明らかにしている。前者については,「まちづくりハウス」という非営利専門家集団の動きがおもしろい。まちづくりという活動は,ときに専門的な知識を必要とする。行政や企業への働きかけに対して専門的知識は強固な説得力をもつ。また当事者の地域住民の間で個々の利害が衝突するとき,専門的知識は妥当な意見に到達するための導きの糸となる。「行政・住民・企業のどのセクターにも属さず,そこから等しい距離に位置し」つつ,住民主体のまちづくりの強力な助っ人として,専門家集団の果たす役割は大きい。
 まちづくりの主体は,もちろん住民である。しかし,住民の接近しえない情報や技術を提供し,住民同士の合意形成までのコミュニケーション過程に専門家集団が大きな役割を果していることは,「どうやって民間で合意を形成していくか」の報告からも伺われる。まちづくりだけでなく,さまざまな分野でのNPO活動における専門家集団の位置づけはこれからの重要な検討課題となるだろう。
 6 民間の教育活動

第Y部は,学校教育制度の「外」にあるさまざまな民間団体やその運動の意義を扱う。これらの民間団体や活動は,@学校にいかない,いけない子どもの居場所としてのフリースペースづくり(東京シューレー,アカデミア・小さな学校),A競争原理を掲げる進学塾とは異なり,公教育に見捨てられた子どもの側に徹底して立とうとする補習塾とそのネットワークづくり(子ども支援塾ネット),B公教育価値からの解放をめざすフリースクールと対照的に,障害のある子を障害のない子と同じ「普通学校」(学級)に通学させることにより統合教育をめざそうとする活動(「共に育つ教育を進める千葉県連絡会」)など,多彩な広がりをみせている。
 これらの団体や活動が教育の理想を掲げながら,依然として公教育の肥大化と「学校信仰」の根強い社会のなかで,いずれも理想と現実のはざまで基本的なパラドックスにおかれている現実を,報告書は克明に浮き彫りにしている。たとえばいずれのフリースクールも,@フリースクールが安定した教育活動を継続するための基盤として,学校としての認可を受ける(公的援助を受ける)方向をめざすのか,公教育価値の徹底的な否定のうえに任意団体としてとどまるのか,Aフリースクールの位置づけとして,本来行政がやるべきことを民間でやっているという「補完性」を強調し,民間教育を「学校」と対等な位置におくことを主張していくのか,むしろ公教育が失った教育理念を積極的に追求していく側面を打ち出していくのか,のジレンマのなかにあり,しかもそれが脆弱な経営基盤とかかわって問題を深刻にしている。
 一方で「不登校」となった児童・生徒の増加,他方で活発な民間教育団体の動きのなかで教育行政は変わりつつあるのか――。そのあたりの事情を「教育行政と民間教育活動」の報告はさぐっており,興味深い。1992年,文部省はこれまでの「不登校」に対する姿勢を大きく変え,「登校拒否は誰にでも起こりうる」という見解のもとに,一方で学校復帰支援のための指導・援助を行う「適応指導教室」の設置をすすめ,他方で「民間施設に通うことも適応指導教室と同様に指導要領上出席扱いになることを認める」態度を打ち出している。
しかし,こうした文部省の態度「変容」に対して,民間教育団体の反応はきわめてひややかである。むしろこれによって民間教育団体が学校に対して出席の確認や授業内容を報告し,子どもの状況の変化を伝えることが義務づけられ,「民間教育団体は学校機能を補完する場」という見方が強化されてしまったという認識の強いことを,報告書は教えている。学校を相対化するうえで積極的な役割をはたしてきた民間教育団体が,いったいどこへ行くのか――報告書は,その具体的かつ豊富な事実を提供することにより,私たちに考えさせる力をもっている。

調査と報告書を作成するうえで,お世話になった多くの人びとにあらためて感謝の意を表したく,本当にありがとうございました。


REV: 20160425
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