第14章 見える世界で生きていく 「「視覚障害者の現状と問題「「                        Magaribuchi,Yuko Miyazaki,Rie                          曲淵 優子  宮崎 理絵 はじめに 「電車のなかは真っ白だと思ってたんですよ。広告でいっぱいなんだと知ったのは最近のことです。」  第14章と第15章では対象を視覚障害者に限定し,「情報」というキー・ワードに基づいて話をすすめたい。「情報とはいったい何なのか」という疑問を常日頃抱いていたので,視覚による情報が得られないこと,視覚障害というものについて興味をもった。実際,「視覚障害者=情報障害者」とも言われている。もちろん他の障害を持つ人も情報が得にくいということはある。「障害者には判断材料となる情報が少なすぎる」ということで,旅行,交通アクセスといった情報提供の仕事を頑張っている肢体不自由の方もいた。が,「見えない」ということは,墨字(普通に書かれた文字のこと)は読めない,テレビを見ることができない,自分の周囲の状況すらわからない,要するに晴眼者が当たり前のこととして受け取っている情報のほとんどを受け取ることができないということなのだ。例えば,私たちが普段何気なく目にしている電車の広告,それさえも彼らは気づかない。  「『見えない』とどうなってしまうのか?」というのが私たちの最初の疑問である。現代は情報過多の時代だとか,情報が多すぎてかえって困るなどとよく言われるが,その情報のほとんどは「見ること」によって摂取される。これは「見えること」が前提となっているからである。つまり「現代社会=晴眼者の社会」ということである。これが,視覚障害者が情報障害者と呼ばれる理由である。  見えて当然の世界において「見えない」というのは二重に隔離された状態である。Aという情報を得るためには,まず「Aの存在を知る」という段階を経なければならない。晴眼者は,視覚障害者のために,ある情報を「見なくても」摂取できるような形態(朗読テープや点字本,CD-ROMなど)に置き換えることには懸命だが,その一歩手前,その情報の存在を知らせるというところまではなかなか気がつかない。  必要以上の情報が溢れ,その価値も見極めにくくなっているような現代社会。その中で生きている,最小限の情報の摂取さえもままならない人々。彼らはどのようにしてこの社会で生活しているのだろうか。彼らの体験するものを通して,現代社会において情報を受け取る受け取れないとはどういうことなのか,そもそも現代社会における情報とは何なのか,限られた情報の中で生きるとは具体的にはどのようなことなのかを考えてみたい。  この調査は主に5人の視覚障害を持つ方へのインタヴューからなっている。対象者は以下のとおり。 ◇Aさん(男性):針・灸・マッサージ師/4歳の時に病気により両眼摘出 ◇Bさん(男性):町田市立中央図書館・障害者サービスコーナー勤務/2歳頃から弱視         で5歳半の頃完全に失明 ◇Cさん(女性):大学生(調査の時点で4年生)/2歳の時に病気で失明 ◇Dさん(女性):電話交換手/先天性の弱視,高校生の時に失明 ◇Eさん(男性):大学院生/小4年時に事故で完全に失明  視覚障害者を情報との関連で見る前に,彼らをより具体的にイメージできるよう,まず彼らの日常について触れておきたい。 T 生活  1 健常者にとっての便利さ「その裏側で「  「コンビニのおにぎりって開けにくくて…」とAさん。インタヴューが行なわれたのはお昼時。昼食がまだだというAさんのためにコンビニのサンドイッチとおにぎりを用意した。サンドイッチは順調だったが,おにぎりになかなか手をつけない。どうやら,「開けにくい」ためらしい。「しっとりしてしまわないよう区切られた海苔を,ご飯に一連の動作で手を汚さずにまくことができる」という便利さを追求したこのおにぎりも,視覚障害をもつ人々にとっては「不便」としか言いようがない。  健常者にとっては便利でも,障害者にとっては逆に「不便」になってしまうという現象は街のあちこちに見られる。例えば,銀行のキャッシュ・コーナーに使われているタッチ・センサー。凹凸のないモニターでは,どこに触れればよいのかわからない(これは現在音声で知らせるサービスを開発中)。  本格的な買物は一人では到底できないので友人に付き添ってもらうことが多い。少し前ならばその店の店員に手伝ってもらうこともあったが,最近では自分一人のために時間をさいてもらうわけにはいかない状況になりつつある。「手伝ってくれる人がいれば行くけれど,頼みにくい状況であるならば,なるべく行かずに済ませようとしてしまう。」もちろん,臆することなくどんどん頼めばよいのだが,「そうできない人もたくさんいる。彼らは毎日を心配しながら過ごさなくてはならない。」  今や,社会の大きな流れとなっている人員削減や機械化。この傾向の煽りを受けるのは,やはり社会的に弱者と呼ばれる老人や障害者だ。  2 交通に関する諸問題  人員の削減や機械化はなにもスーパー等,店に限ったことではない。最近著しいのが駅の窓口やホームである。目が見えない者にとって目的地を告げるだけで切符を発行してくれる窓口の存在は大変助かる。しかし,現在はその窓口も一駅に一つというところが多くなってきた。誰もがたった一つの窓口で用を済ませようとするのだから混雑して当然だ。絶え間ない客の列に駅員の応対もついそっけなくなる。こうした状況は視覚障害者を駅から遠のかせ,ひいては「移動する」ことからも遠のかせる。  設備が整っていく反面,人が減らされていく。小田急線のロマンスカーの切符が販売機で買えるようになった。これは視覚障害者には使えない。Aさんの話によると「少数の人に使ってもらわなくてもうちは大丈夫なんだ。多数の人が便利であればそれでいい。」というのが企業側の言い分である。障害者や老人などの少数派に労力を割きたくないのだ。 JRの東京駅には障害者用のエレベーターがある。駅員に頼めば動かしてくれることになっているが,ある人は「こういうことは3日くらい前に言ってくれないと」と言われた。障害者にはその日に好きな方向へ行く権利はないのだろうか。会社側は少数派の立場や意見の考慮に積極的なわけではない。それはどこかに,障害者には乗ってもらわなくてもよいという考えがあるからではないだろうか。  また,彼らにとって最近特に困るのが,自動改札の駅が増えていることだ。あれではどちらが入口,出口だかわからないのだ。以前はハサミの音でわかったが,自動となった今では,女性の靴音に神経を集中させるという。それに伴い,構内の駅員が減ったので,分からないことがあってもなかなか聞けない。ホーム内,車内ともにほとんど駅員がいないので危険があった場合を考えると,とても不安である。ホームに白線と一緒に点字ブロックが敷いてあるが,以前視覚障害者がホームから落ちて轢かれてしまうという事故が起きてから,敷かれるようになったそうだ。それでも,今でも落ちてしまう人はいて,ただ点字ブロックを敷くだけではだめである。やはり駅員がいないのは問題だという。一番良いのは,最近できた南北線のように,ホームと線路の間に仕切りがあって,電車が来たときだけドアが開く,という方式の駅だろう。しかし,そういった問題がすべて解決する日が来るのだろうか? 自動改札の入口・出口の問題ならば,チャイムなどで知らせるというように改善できなくはないが,絶対数の少ない視覚障害者のために,社会はそれ以上のことをやろうという意識を持つだろうか? そんなときBさんが言った。「視覚障害者が生活しやすい社会は,全ての人にとって生活しやすい社会だ」と。確かに私たちだって,わからないことがあったり,ホームで問題が起こったときに駅員がいなければ困るだろう。  道路にも点字ブロックはあるが,すぐ脇に電柱が立っていたり,ブロックの上に駐輪してあったり,というようにとても使いやすいという状態とはいえない。また,視覚障害者は点字ブロックを歩行の手がかりとしているのであって,直接その上を歩いているわけではない,という事実も案外知られていない。利用者の立場を考えるならば,点字ブロックの周囲にも気を配るべきだろう。  旅行経験の豊富なEさんによれば,障害者が積極的に社会参加を果たしている国(ドイツやスイスなど)では点字ブロックなどないという。必要ないからだ。国民一人一人が常に弱い者を気にかけているということが何よりも,障害者や老人が安心して生活できるための基盤を作り上げているのである。日本はそこが逆転している。設備を整えればいいというものではない。なぜ必要なのか,どう活用されるべきなのかという問いが先にあってこそ誰にとっても理想的なシステムが得られるのである。  それから,インタヴューの際に強調されたのが,視覚障害者が街を歩くときに一番必要とする情報源は人だ,という点である。点字ブロック,音声式信号,駅の切符売場の点字表示など,視覚障害者向けに設置されたものは確かにあるが,やはり周囲の人の動きや,人に教えてもらったこと,そういった情報を最も頼りにしているのだ。 U 仕事  1 能率重視の社会  現代の社会で求められているものの一つに「能率」がある。あらゆる分野において短時間でより高い生産性をあげることが生き残るための条件となっている。  三療家のAさんは昨年(1993年)の7月まで茨城県にあるサウナに勤めていたが,現在は依頼があると自宅まで出向いていって仕事をするという「出張サービス」を行なっている。千葉・船橋・習志野の3市をまわるが,特別移動が大変ということはない。というのも,客はほとんど顔見知り(友人やその家族など)なのでいつも決まった所へしか出向かないからだ。大きな看板を出しているわけでもないので忙しいということもない。それでも生活に支障はないという。年金が支給されるためだ。  「働かないでお金を貰うということに引け目を感じるときもあるけど…」と前置きをしてから「でも(年金を貰うことは)仕方がないと思う」と言う。その理由はこうだ。まず,障害者はお金がかかるという事実がある。障害者用器具は需要が少ないため高くつく。例えば,視覚障害者が使用する「白杖」。Aさんによれば,あの杖1本でも 5,000円程度する。障害者用の器具は,申請すれば国や自治体が用意してくれる場合もあるが,大抵指定されたものになってしまう。白杖1本でも素材やグリップ,長さや重さなどが異なるため,自分が使い易いものとなるとやはり自分で用意しなければならない。肢体不自由の人が使用する大がかりな器具になればもっと高価だろうし,生活環境自体も変えていかなければならないため,設備投資にも大変な費用がかかることになる。  しかしそれ以上に年金を貰うことに抵抗を感じなくなる最大の理由は,やはり「仕事がない」ことだ。学生がアルバイトをしたいと思っても雇ってくれるところがない。社会人として働きたくても仕事がない。これは,障害者に働く能力がないのではなく,彼らに仕事を任せる余裕を与えない社会システムが出来上がってしまっているためだ。  視覚障害者について考えてみよう。今の社会では「速い」ことが優先されるし,書く作業など視覚を使わなければできない仕事が多すぎる。目でとらえられる一つ一つの情報を別の感覚から分解して取り入れ,自らのなかで再構成するという作業を繰り返さなければならない彼らにとって,「遅い」という事実は今の設備や制度のなかでは克服できない。一定以上の規模をもつ企業は常雇労働者の 1.6%に相当する障害者を雇用することを義務づけられている。これを満たしていない場合には罰金が課せられることになっている(→第9章)。だが「障害者を雇うくらいなら」と,罰金を進んで払う企業も少なくない。  2 見えないことは不便なこと  町田市立中央図書館に勤務するBさんは,就職して初めて「見えない」ことが不自由だと思った,と言う。高校までは周りも視覚障害者だったため学内の勉強はすべて盲人用の教科書で行なわれた。大学では教科書の手配が大変ではあったがそれでも何とかなった。しかし職場となると勝手が違う。どう頑張っても墨字を読むことはできないが,晴眼者の社会では墨字を読むことなしに仕事を片付けるのは不可能だ。休館日の月曜日に事務用の対面朗読が設けられてはいるものの,日々回ってくる回覧の中には緊急に回さなくてはならないものもある。Bさんは,親子喧嘩で一番困るのは相手が黙り込んでしまうときだと言う。職場でもまさにその通りで,何も読んでもらえなければ一歩も動くことができない。  自分に任されている仕事を人の手を借りずしてこなすことができない歯がゆさというのは職場の人間関係にも影響する。Bさんが仕事で図書館にいるのは1日最低8時間。長い日は12時間近くもそこで過ごさなければならない。おのずと人間関係には気を使う。会議で言いたいことがあっても「目を借りる時に気まずくなるのでは」と思うと,思うように発言できない。「タイムカードから押してもらうんだから。といっても結構言いたいこと言ってますけどね。」  見えないことは決して不幸なことではない。だが,それは晴眼者中心の社会においては「不便」なこと。克服こそできないが補ってさえいけば視覚障害者でも仕事をすることはいくらでも可能なはず,とBさんは言う。 V 情報を得る手段  視覚による情報が得られなくても,他の感覚を利用してそれを補うことは可能である。墨字で書かれた新聞や本はどう頑張っても読むことはできないが,点字化や音声化すれば読むことができる,というように。ここでは主に,視覚障害者特有の情報受信手段について,それらの現状,問題点,改善策などについて述べていきたい。  1 点字  視覚障害者が情報を得るための手段として広く知られている点字。ところが最近「点字離れ」が起きているという。原因の一つには40年程前に開発された録音図書の普及がある。録音図書の貸出は点字図書の貸出に反比例して確実に伸びてきている。テレビやラジオなどの普及による多メディア時代の到来が「活字離れ」の現象を生み出したのと同じである。  さらにもう一つの原因として,視覚障害者の高齢化が挙げられる。1987年に厚生省によって行なわれた調査によると,全国の視覚障害者は31万1千人とされるが,その中で17歳以下は2%にも満たないのに対し,60歳以上は3分の2を占めている1)。子供時代のそれとは異なり,高齢になってからの点字の解読修得が容易でないことは想像に難くない。  しかし,点字の潜在的利用者は増加していることがわかる。1982年には,全国の点字図書館の利用登録者のうち点字利用可能者は38.0%であったが,5年後の1987年には52.6%と増大している2)。これと並行して点字蔵書数と点字ボランティアの数も確実に増えている。情報を摂取するためだけなら音声で十分だが,情報処理となると点字の必要度はぐんと増す。  東京・町田市では,町田福祉事務所が点訳者を養成しており,現在の登録者数は60名になる。市の30周年を記念して1990年11月30日に開館した町田市立中央図書館には点字赤十字奉仕団から寄贈された点字の小説類がある。また,希望者の要請に応じた点訳のサービスも行なっている(町田市在住者,勤務者,通学者,障害者に限る)。  しかし,点字には様々な難点があるのも事実である。まず,コストパフォーマンスが悪い。点字用紙は1枚2円20銭。片面打ちの場合は点訳者に払う報奨金が1枚につき 200円。これで1枚につき約202円かかることになる。1冊を枚数にして約100枚とすると20,000円程度。これで終わりではない。墨字1タイトルを完成させるためには,これが何巻か必要になるのだ。さらに人件費や印刷代等々をプラスすると,平均して1タイトルにつき墨字の本の 5.3倍もの価格がつくことになる。町田市や川崎市では10万円までの補助金が支給されるものの,辞書類では,コンサイスの英和辞典に17万円という高値がつけられている。  完成までに手間暇がかかりすぎることも点字本の弱点だ。従って,辞書類なども古い版のものしかなかったり,語数が少なかったりすることも多々ある。大学生のCさんが使っているドイツ語の辞書も,1962年のものだという。あまり需要のないもの(例えば韓国語の辞書など)はほとんど点字化されてない。  さらに,点字本の最大の弱点はかさばることだ。そのため,Cさんは卒業論文を書くために日本点字図書館へ行く。欲しい本をすべて買いそろえていたらお金がいくらあっても足りないし,第一部屋が本でいっぱいになってしまう。コンサイスの英和辞典を収納するためには,部屋の壁面一つをまるごと本棚にしなければならない。  しかし,こうした点字の難点もパソコン関係の各種機器の開発により大分解消された。まず,パソコン点訳ができるようになった。点訳ソフトを使って点字を入力することもできるし,ワープロで入力した文字を自動点訳にかけることもできる(自動点訳には固有名詞に弱い,分ち書き3)が完全でない等のマイナス面もあるが)。パソコン点訳で製作された「プログレシブ英和中辞典」は点字キーボードと点字ディスプレイで検索できる。またパソコンを使用することによって視覚障害者も漢字仮名混じり文を作成できるようになった。さらに,CD-ROMや電子ブックを利用し,パソコンとCDドライブを接続して,音声化や自動点訳などを使って必要な情報を必要なときに取り出せるような機器が普及するようになるだろう。また,文字を自動に読み取る機械(OCR)とそれを音声化する機械が実用化されている。将来的にはコピー機のようなものに原稿をのせるだけで,音声化することも必要に応じてプリントアウトすることも可能になるだろう。つまり,墨字で書かれた書籍がそのまま利用できるようになるのだ。その他にも点字プリンターやピンディスプレイワープロソフト4),パソコン通信など,点字の情報処理能力を十分に活用すべく機器の開発がすすめられている。  2 朗読サービス  先に述べたように,最近では録音図書や朗読テープなどの音声サービスの普及が著しい。主な理由としては,視覚障害者の中には,高齢になってから失明した人が多く,そういった人はなかなか点字を使いこなせないこと。それからやはり,指に神経を集中させて点字を読むよりは,耳から情報を摂取するほうが楽だからでもある。朗読サービスの現状を点字と比較して見てみることにしよう。  町田市立中央図書館でも,点字図書と朗読サービスそれぞれの充実に力を入れている。点字と朗読のどちらに重点を置くかは,状況や人によって違う。ここに,2歳の時に失明した,前出のCさん(家族と同居)と,先天的な弱視で高校生の時に見えなくなり,その後職業訓練を受けて現在市役所で電話交換手をしているDさん(一人暮らし)という2人の女性がいる。2人は生活環境や失明した時期など,かなり立場が違うので,点字や朗読に対する接し方もそれぞれ異なっている。  Cさんは小さい頃から点字に慣れ親しんでおり,大学で語学を勉強していることもあって,点字をよく利用する。教科書はボランティアや図書館に頼んで点訳してもらい,辞書など重要なものは買っている。重要なものでも点字化されていなければ,図書館での朗読サービスを利用する。Dさんは中途失明のためか,朗読テープを利用することが多い。  次にサービスを提供する側の話を聞いてみた。町田市立中央図書館の障害者サービスコーナーに勤めるBさんは,自身も視覚障害を持つ。ここの主な活動内容は,点訳,録音作業,対面朗読の設定,障害者対象のワープロ指導,点訳者や朗読者等のボランティア養成講座,などである。ここでの対面朗読サービスのシステムは,対面朗読室という専用の部屋が2部屋あり,2時間1コマという感じで予定を組んで朗読サービスを行なうというものである。朗読は,図書館で募集し,養成講座を受けた朗読者が行なう(1993年7月の時点で,点訳者60人,朗読者 120人が登録されている)。ところで,点字ならばある程度技術がいるのでわかるのだが,朗読者にも養成講座は必要なのだろうか? そこで講座の内容について尋ねてみたところ,この図書館の講座はたいへん中身が濃く,本格的であることがわかった。まず,「初級」と「中級」の2つのレベルに分かれている。「初級」は週1回2時間の講座15回のコースで,発声,発音,アクセント,鼻濁音などといった「読み」の基礎や,辞書の使い方,図表の読み方について行なわれる。「中級」は,「専門講座」となっており,分野別に週1回2時間のコースが3回行なわれる。具体的にどのような分野があるかというと,東洋医学(針・灸・マッサージ)の本の読み方や,コンピュータ関係の本,図表の読み方などで,これらによって,ただ文字を読むだけでは対処できない文献についてカバーすることができる。対面朗読の良い面はやはり即時性である。新聞や雑誌を読みたいときや大まかな内容がわかればよいとき,すぐ知りたいことがあるときなどに有効だ。この時点で定期利用者は6人いて,ほとんど毎日利用しているとのことだった。  朗読者は,本を丸ごとテープに吹き込んで,録音図書を作るという仕事も行なう。手順は,まず「下読み」を行ない,読めない漢字や専門用語などを調べる。これに1ヵ月かかる。その後「テープ録音」に入るが,90分テープ1本を仕上げるとして,その3,4倍の時間がかかる。厚い本だと90分テープ10本ほどになってしまう。仕上がってから校正専門家に聞いてもらい,修正を終えてようやく完成となる。結果として,本にもよるが,1冊は90分テープで6,7本になり,時間にして半年近くもかかってしまう。  もう一度簡単にまとめると,重要と思われるものについてはやはり点字化したものが欲しいという声もあるが,朗読には,即時性や情報摂取のしやすさ,誰にでも利用できるなどの利点があるといえる。  ちなみに,「普段の生活のなかで,点字化して欲しいものはありますか?」CさんとDさんにこう質問したところ,特にこれといった答えは返ってこなかった。こちらとしては,何でも点字化したほうがいいのだろうと思い「時刻表とか,点字だったらいいと思いませんか?」と尋ねたところ,「でも人に聞いちゃえば済むことだしね。」視覚障害者にとって本当に必要な情報とは何なのか,晴眼者が勝手に判断することはできないなと思った。それは次に話す「副音声」サービスについても言える。  3 TV・ラジオ  TVやラジオといったマス・メディアについていろいろ話を聞いたのだが,まず,おや?と思ったのは,全員が「TVを見る」と表現することだった。それは,言葉の習慣上そういう言い方をしているのかもしれない。そして,実際彼らはTVをよく利用しているようだ。「マス・メディアと言えば?」の質問に「やはりテレビ,ラジオ,新聞ですね。」という声がよく聞かれた。  Dさんは一人暮しだが,家にTVがあり,ニュースやクイズ番組,バラエティをよく見るという。ドラマは,単発のものなら見るが,連続ものはあまり見ない。やはり連続ドラマだとわかりづらいのかな,と思っていたら「次はどうなるの?ってハラハラしちゃうから見ない」のだそうだ。「どんな番組が好きか」という質問には,やはり聴覚で楽しむ番組が多いようだが,アニメなど,視覚でとらえると考えられがちな番組も晴眼者と変わらず見ることがあるという。  ラジオの利用度はやはり高い。ただ,ラジオのニュースは,いかにも原稿を読んでいる,という感じだが,TVでは番組の構成上,話し方にも工夫がされているのでおもしろい,という意見もあった。  さらに,ドラマなどのTV番組で,視覚障害者のために行なわれている副音声サービス。映像に合わせて人物の行動などを事細かに説明したりしているが,どこまで機能しているのだろうか。視覚障害者は本当に面白いと思っているのだろうか。  大学院生のEさんは晴眼者の友人と「副音声の研究」をした。その結果「副音声の方が映像よりも先を行く」傾向があることがわかった。この研究はもちろん本格的なものではないと思うが,しかし,なるほど,映像では「まだ死んでいない」のに副音声では「息絶えた」となっている。視覚障害者の方が晴眼者よりも先に情報を得てしまうとは何とも皮肉な話であるが,確かに必要な情報を最高のタイミングで知らせるのは難しい。  実際に副音声の評判をうかがってみると「細かすぎる」「必要ないことまで言い過ぎてかえって混乱する」「なくてもいいんじゃない」などという返事が返ってきた。それではあんまりなので,どのような状況で一番必要性を感じるかを尋ねると「外国人のインタヴュー。字幕が多いけど音声でも流して欲しい。」「映画館で外国映画を見るとき。」という答えが返ってきた。  「無くてもいいのでは」という意見に対し,「それでも何もしてくれないよりはいいのかも」という好意的な意見もあるにはあったが,副音声の機能に関しては,どうも視覚障害者にとってあまり役に立っていないと言えそうだ。  4 新聞・雑誌  『点字毎日』(通称『テンマイ』)は国内・外の視覚障害者関係のニュースや,主張などを主に取り上げている週刊誌である。1922年(大正11年)の5月11日に創刊された。他に『点字ライフ』という雑誌や『中央公論』の抜粋を録音したテープなどもあるが,日刊誌はない。このため,テレビやラジオで聞くニュース以上に,広告による生活情報などからとり残されている。点訳の絶対量とそれにかかる能力を照らし合わせてみると,必要最小限のものしか点訳できないのが現状だ。視覚障害者の情報不足が改善されるためには,より高度な技術的革新が必要だろう。 W 生活の充実へ向けて「「情報障害」解消へのシナリオ「  1 残された問題  以上,視覚障害者が情報を得る手段について挙げたが,これらの中には,本当に彼らの役に立っているのか?と疑問に思うものもあった。では,うまく活用されていない原因はどこにあるのだろうか。  まず一つ言えるのは「視覚障害者不在でのサービス」になってしまっていることだ。Eさんによると,副音声のサービスは晴眼者だけで企画・制作されているという。視覚障害者のために,と思って行なうサービスでも,視覚障害者自身の意見を聞かずに進めているものが多い。情報というのはタイミングが大切であり,それがうまく行かなければ無意味な情報となってしまうのではないか。意見を聞くことによって改善可能なこともあると思うので,どんどん直していくべきだろう。  もう一つは,情報をただ与えれば良い,という発想にある。点字ブロックなどは,「要請があったので敷いた」という感じで,その意味や機能の限界などまできちんと考慮していないように思う。  障害者のための各種機器の開発などに関しても,障害者不在の状況があるのではないだろうか。健常者が考案したものが必ずしも障害者の求めているものとは言えない。  ある盲人の技術者が簡易の家庭用点字ワープロを自作した。シンプルな造りだが非常に美しい点字を打つという。Bさんが「今度はピンディスプレイを作ってみてはどうですか」と勧めると,彼は本体を少し触ってから「日本のピンディスプレイは無理やり作ったような感じがする」と感想を述べた。技術者といえども,こうした機器に関しては素人である。その彼が少し触ってみただけで「もっと簡単で使い易く改良できるはずだ」と言うのだ。  企業や国はまだまだ本気になっていない。視覚を補うだけで拓かれる可能性のある才能がたくさん眠っているかもしれないとは考えないのだろうか。確かに障害者はマイノリティだ。しかし,障害者は特別な存在ではないことにそろそろ気がつくべきである。今は健康でもいつかは年をとり眼も脚も弱くなる。それは多くの健常者が辿る運命だ。障害者問題を障害者のためだけの問題ではなく,健常者も含めた一つの連続したものとしてとらえることができれば,もっと早急に対応しなければならない課題であることに気づくだろう。  2 改善への提案  Bさんが普段の生活でよく思うのが「そこに情報があることすらわからない」ということだそうだ。ピンディスプレイも点字ブロックも,そこにあることがわからなければ役に立たない。Bさんは先にも述べたとおり,町田中央図書館で仕事をしており,利用者の希望に応じて点訳のサービスを行なっているが,「何の本を読みたいか,という以前にどんな本があるのかがわからない」と言っている。判断材料となる情報が入ってこないのだ。 つまり,情報がうまく活用されるためには,彼らが本当に欲しがっている情報を,晴眼者がちゃんと把握する必要があるのだ。晴眼者が視覚障害者についてよく知らないために,彼らの「情報不足」という問題を引き起こしている,と言ってもいいだろう。例えば,「目の見えない人は何もできない」という偏見が,彼らを社会から締め出している。実際には視覚障害を持っていても,晴眼者と同じ場で勉強したり仕事をしたりしている人はいる。趣味についても,旅行やスポーツが好きだという人は結構いる。旅行が趣味だというEさんのお話に正直なところちょっとした違和感を覚えたので,「旅行に何を求めるのか」と聞いたところ,「食べ物とか人と知り合うとか…」といった答えが返ってきた。旅行とは視覚的な要素を多く含んでいるように思えるが,決してそれだけではないのである。けれども,「見えないんだからわからないだろう,できないだろう」という偏見のために,活動の場がほとんど与えられないというのが現状である。  だとしたら,結局根本的な問題解決は,社会の意識レベルまで立ち返らなければできないのだろうか。インタヴューの中で「障害もひとつの個性とみなしてつき合ってほしい」,「視覚障害者も晴眼者も互いに『いやなことはいや』と言い合える(はっきり断れる)社会になれば良い」という話があった。こうした意識の食い違いや認識の低さは,やはり身近に視覚障害者がいない,慣れていないのでどうつき合っていいのかわからない,ということから起こるのだろう。晴眼者と視覚障害者がともに生きる環境を作ることによってこういった問題を改善することができるのではないだろうか。  ではその改善のために,具体的にどうしたら良いのか。「慣れる」といっても視覚障害者の絶対数は少ない。「一家に一人,というわけにはいきませんからね。」とBさんも言う。やはり小さい頃から接していたほうがいいという考えから,統合教育が一つの手段だと言えるかもしれない。しかし,「ただ一緒にするというのでは意味がない。晴眼者にとってはプラスになるかもしれないが,視覚障害者にとってはむしろ,盲学校にいって点字や歩行訓練など,生活に必要な教育を受けるほうがプラスかもしれない。」との意見もあった。単に普通学校で一緒に勉強,というのでは,視覚障害者にとって不十分で,例えば学校と密接な場であるような社会訓練センターや双方の相談にのってくれるカウンセリングサービスなどを設けなければならないだろう。とにかく小さい頃から互いに身近に接することは大切で,そうすることによって誤解がなくなったり,つき合っていく上での注意点などがわかってくるのではないだろうか。 注 1) 2) 小島[1993:38] 3) ひらがなのみで書かれる,点字の文章の意味をより確実に読み取っていくための表記 法。およそ文節ごとにひとマスあける。 4) 「視覚の代わりに触覚を利用する特殊なディスプレイで,これには2種類ある。点字ディスプレイと呼ばれるものは,点字の6点に相当する部分が金属や合成樹脂などのピンでできており,これが飛び出すか,振動するようになっている。コンピュータとの会話用にも使える。もう一つは,簡単な図形を表示できるようにしたもので,たとえば,葉書程度の大きさに数百本のピンを配置する。」(太田[1990:25])