第9章 障害者の就労に関する制度はどうあるべきか                          Amemiya,Takehito Wu,Hsiao Ping                            雨宮 健人   呉 小 萍1) T 何が問題なのか  1 能力とコストの差  働くうえで世の中の人々の間に能力の差があり,生産性に差が生じるのは事実である。また,働くために人よりコストがかかる人もいる。障害を持つためにこういう差が生じることもある。それを,本当はみんな同じように働くことができると言うのは,現実を現実として受け止めていないということである。「誰にでも働く権利がある」と言うのは簡単だが,そう言うだけでは問題は解決されない。   健常者Xの生産高…Px   障害者Yの生産高…Py   障害者Yが生産高Pyをあげるためのコスト…C とおく(実際には誰でも働くためのコストがかかるのだから,CをXとYにかかるコストの差Cy−Cxと考えてもよい)。XとYを比較して  ・コストを差し引いて健常者以上もしくはそれ同等の生産をあげる場合    Px≦Py−C …@  ・コストを差し引いて健常者以下の生産をあげる場合    Px>Py−C …A に分けられるが,Aの場合のYの雇用に問題が生じる。それは雇用主が利潤追求を目的とした企業だからだ。その観点から見ると,もしXとYに同じ賃金を払うのであれば,雇用主はできるだけ@の場合に近いYを求め,Aの場合のYは雇用されにくいことになる。  それでも働きたい人はいる。働かずに暮らすのが難しいなら,働かねばならない。だから,これをどうしたらよいのかを考えなければならない。2)  社会が生産効率を評価する限り,障害者が雇用されにくい現状を打開するのは難しいように思える。実際,そのようなことがよく言われる。上の式もそのことを示しているようにも思える。しかし,社会全体として見た場合に,Aの人が雇用されないことが合理的であるとは必ずしも言えない。  まず,Py−C>0 ならば,つまりその人の生産が生産のためのコストを上回るのであれば,少なくともそれ自体は,「社会」に損失をもたらすことはない。  また,その人が働かなくてもその間その人の生活を維持するためのコスト(これを Coとする)がかかるのであれば,仮にPy−C<0であっても,C−Py>Co なら,働いた方がコストがかからない,「社会」に利益をもたらすことになる。3)  つまり,障害者に対し設備を整えることによって彼らが働けるようになることは,社会的にも利益となりうるということである。したがって,障害者雇用の問題は,働きたい人の希望と生産性重視の社会との対立とは必ずしも言えず,働きたい人の希望,そして社会的な利益と,個々の雇用主にとっての利益が合致しないことをどのように調停し解決するのかということでもある4)。生産性・効率性を第一の基準にするべきではないとしても,このことは踏まえておいてよい。では,以下,障害者雇用のあり方について考察していく。  2 制度  日本では,「障害者の雇用の促進等に関する法律」5),いわゆる「障害者雇用促進法」によって,企業等の事業主に障害者の雇用率の下限を定めることで就労の促進がはかられている。この障害者雇用率の下限は,現在,民間企業1.6%,特殊法人1.9%,国・地方公共団体の非現業的機関2.0%,現業的機関1.9%,となっている。ただし,常用労働者である重度身体障害者・重度精神障害者は1人で2人分(いわゆるダブル・カウント),短時間労働者である重度身体障害者・重度精神障害者は1人を1人として計算されることになっている(これは以下の計算についても同じ)。また,労働省に報告義務があるのは従業員63人以上の事業所である。  さらに,「身体障害者雇用納付金制度」という制度がある。雇用率を達成しない事業主から「納付金」という名の罰金(あるいは雇用しないことを認めてもらうためのお金)を徴収し,そのお金を以下説明する「身体障害者雇用調整金」「報奨金」及び各種の「助成金」に回そうというものである。法定雇用率を達成しない場合,この率に達しない人数分について,1人当たり1月5万円を国に納めなければならないとされている。ただし,常用労働者 300人以下の事業主はこの納付金を徴収されない。  「身体障害者雇用調整金」は,雇用率をこえて身体障害者等を雇用している事業主に対して,雇用率を超える1人につき月25,000円支給される。これも常用労働者 300人以下の事業主には支給されない。  また 300人以下の規模の事業主については,月毎の常用労働者の数の3%の1年の合計数,または,60人(5人×12月)のどちらかよりも障害者を雇用している場合,この数を超える1人につき月17,000円の「報酬金」を支給する。  また,身体障害者を雇い入れる事業主には,身体障害者等のための設備設置等に必要な費用にあてるための「助成金」が支給される。これには現在6つの種類がある。  @「障害者作業施設設置等助成金」:新規雇入れの場合で,作業を容易にする施設・設備の設置又は整備に助成。助成率は2/3,設置の場合は障害者1人につき 450万円が限度,賃貸の場合は月20万円が限度。賃貸の場合の支給期間は3年間。  A「重度障害者職場適応助成金」:新規雇入れの場合で,職場適応措置の実施に対する助成。助成率は2/3,障害者1人につき月3万円(短時間労働者の場合2万円)が限度。支給期間は3年間,引続き適応措置を実施する場合は2年間の延長がありこの場合の支額は 1.5万円(1万円)  B「障害者作業設備更新助成金」:@の対象となった作業設備の更新で,設置後5年目以降10年までの1回目の更新に対する助成。助成率2/3。1人につき 450万円が限度。  C「重度障害者特別雇用管理助成金」:3種類あり,いずれも助成率は3/4。  第1種は1.障害者用住宅の新築又は貸借,2.住宅(5人以上入居)への指導員の配置,3.通勤用バス(5人以上利用)の購入,4.駐車場の貸借,5.通勤用自動車の購入又は貸借に対する助成。限度額は助成対象によって異なり,住居の新築で世帯用の場合 900万円,指導員月15万円など。賃貸の場合の支給期間は5年間(通勤用自動車の場合は3年間),指導員の配置については3年間。  第2種は1.手話通訳担当者の委嘱,2.医師の委嘱,3.職業コンサルタント(5人以上に対し)の配置,4.在宅勤務援助者(5人以上に対し)の配置又は委嘱,5.視覚障害者のための職場介助者の配置又は委嘱,6.精神薄弱者・精神障害回復者等(3人以上)のための業務遂行援助者の配置。限度額は配置1人月15万円,委嘱は種類により異なり,1.は1回 6,000円(年24回まで),2.は1回25,000円(年12回まで),3.4.は1回1万円(年 150回まで)。支給期間は1.〜3.が2年間,4.〜6.が3年間。  第3種は継続雇用の場合で,1種・2種の助成が終了した後の助成。1種の2.が月15万円×7年間,2種の1.〜3.が8年間,4.〜6.が7年間(額は上と同じ)。  D「重度障害者多数雇用事業所施設設置等助成金」,E「障害者能力開発助成金」は一般の事業主にはあまり関係がないと思われるので省略する。  3 雇用の現状と制度の欠陥  障害者の雇用の実際はどうなっているのか。法定雇用率 1.6%の民間企業の実雇用率は1992年度1.36%,雇用率未達成の企業の割合は48.1%。従業員 1,000人以上の企業では80.8%が雇用率を達成していない。また1987年の調査では,在宅の身体障害者(18歳以上)のうち就業している者は 701,000人,このうち65歳未満の者は 577,000人であり,これは同年齢層の在宅の身体障害者の42.9%にあたる。障害の程度別にみると,同じ年齢層について1級では19.0%,2級では18.8%となっている。重度の障害者は,5人に1人しか職についていないということである。6)  どうしてこうなるのか。障害者の雇用がなかなか進まない背景としては,障害者に対する無理解や偏見もかなりあるだろう。障害を持つ人に対する教育や職業訓練などが適切に行われていないということもあるだろう。しかしそれだけではない,こうした問題を解決しても残ることがあると思う。それを以下で考えてみたい。  Xの賃金をWx,Yの賃金をWyとし,納付金を▲として   Wy−(Py−C)>▲        …B となる場合,つまり,雇った場合の賃金+コスト−生産高(企業にとっての損失)が,雇わない場合の納付金の額を上回る場合には,雇うよりも納付金=罰金を払った方が安くつくので雇わなくなる。(例えば労働に対して20万の賃金を払うが,生産高からコストを差し引くと10万の利益しか得られない。これで10万円の損失となる。この損失を出すよりも,5万円の罰金を払った方が得である。)  次に雇用調整金・報奨金・助成金だが,これを△として   Wy>(Py−C)+△        …C となる場合,つまり生産高(−コスト)と助成金等を合わせてもそれが賃金よりも低くなってしまう場合には,雇わない方が得である。  以上,納付金と助成金等を別々に考えてきたが,両者を合せると   Wy−(Py−C)−△>▲   Wy−(Py−C)>▲+△      …D  つまり,雇った場合の企業にとっての損失(賃金とコストの支払いから,生産物と助成金等を差し引いた額)が雇わない場合の損失=納付金を上回る場合には,雇わない方が雇用主にとって得だということになる。  またこれは,その人について利益が出るか出ないかだけを問題にしているわけで,実際には雇用主はより利益がたくさん出る人の方を雇うだろうから,Xとの比較で考える必要がある。今度は企業にとっての利益を比較して   (Py−C)−Wy+△<Px−Wx−▲   (Py−C)−Wy+△+▲<Px−Wx …E  の場合,つまり,Yを雇い助成金等を受け取る場合の利益を,Yを雇わずXを雇って納付金を収める場合の利益が上回るなら,雇用主はXの雇用を優先することになる。  しかも,雇用調整金・報奨金は,一定の障害者雇用率を超えた場合にのみ,超えた人数に対して出るものだから,雇用率内の雇用分については支払われない。また,先に見たAの助成金は月3万円で3年間,その後2年間月 1.5万円と,一定の期間しか支給されない。そして,雇用率内の雇用で助成金が切れれば,Px−WxとPy−Wy−C+▲の比較になる。  とすると,雇用主の側の行動として,△が支給されている間だけ雇用する,さらには,△は受け取り,Py及びこれと連動するWyとCを調整して,利益を出そうとする,あるいは(雇用を指導されている場合には)▲を払う損失を減らそうとする,等が考えられる。実際,そのようなことが行われているようだ。7) U 既存の改善案の検討  1 雇用促進法の強化では問題は解決しない  こうした問題を解決する一つの方法は,現存の制度を強化することだ。雇用率未達成の企業名を公表するなど,指導を強化する。また負担金・奨励金を増額するなど。  しかしこの方法でうまくいくだろうか。先に述べたように,一つに障害を持つ人を雇うことに伴うコストがある。そしてもう一つに雇用主が求める職務を遂行する能力が,障害があることによって障害のない人よりも確かに低い場合,しかも,両者に同じ給料を払うような給与体系になっているなら,雇用主はどうしても前者の人を雇おうとはしないだろう。雇う場合でも,できるだけ仕事ができる人を雇おうとするだろう。その結果,重度の障害を持ち仕事が人よりできない人の雇用は進まないだろう。これに対して,納付金・奨励金という方法は有効だろうか。  まず雇用促進法で政府が雇用主に支給する助成金とはあくまで職場に適応し,仕事をするための設備等を整えるための一時的なものとして位置づけられており,長期間にわたって払われるものではない。就職する際,あるいは初期の一定期間,ある程度支援を行なえば,あとは他の人と同じように働ける場合もあるだろう。しかし,それでは足りない人がいる。この制度はこうした人に対応していない8)。  また,助成金は障害の程度に応じていくつかの段階は設定されているものの,個々人の仕事の能力に対応したものではない。すると,生産性の低い,あるいはコストが継続的に多くかかる人はやはり後回しになる。  そして,助成金等は企業に払われる。とすると企業の側が,△(+)▲を考慮し,Px,Wxの方をそれに合せるということも考えられる。例えば雇用はするが,仕事も給料も最低限にし,納付金という名の罰金を払うのを逃れ,助成金を受け取り,助成金が切れたら,解雇はできないまでも,辞めざるをえないような状況を作り辞めさせる。その結果,先にみたような,仕事が与えられない,職場の「お荷物」のように扱われるという状態はなかなか解消されないことになる。  2 保護雇用  一つは,雇用主の方が,職務の遂行能力にかかわらず,一律に賃金を支払うというやり方をとらないことである。例えば,半分しか働けない人には半分しか払わなくてよいようにする。コストCを雇用主が負担するものとする。このとき   Wx:Wy=Px:(Py−C)  のように賃金を設定すれば,雇用主にとって不利益は生じない。しかし,Yは,こうして設定される例えばXの半分の給料では,あるいは4分の1の給料では,暮らしていけないことが当然あるだろう。  この足りない部分やコストbを政府が補えばよいのではないかという考え方がある。これがヨーロッパ等で採用されている「保護雇用」という方法らしい。 「自由(資本)主義経済のもとでは,作業能力が一般労働者の三分の二以下の職業的障害者は,競争的雇用の対象にはなりがたい。しかしこの人々も働く権利があり,収入を得ることがのできる雇用に就く権利を保障されるのは当然であり,社会はそのためのシステムをつくる責任がある。また生産性が低いのは,本人がサボっているためではなく,その障害が原因なのであるから,生産性が低いことを理由にした不当な賃金格差があってはならない,とする理念がまず基本にある。したがって,「保護雇用工場」で働く障害者や,「保護雇用制度」によって企業内で雇用(企業内保護雇用)される障害者は,その地域の産業別平均賃金を基準にして,多少は労働能力を勘案されはするが,基本的には同一水準の賃金が支払われている。」9)  まず雇用の機会を与えること,そして生産性よりも仕事にかけた労力や時間に価値がおかれているようだ。だが,お金を企業に要求しても,企業は利潤追求を目的としている組織なのだから問題が生じる。そこで足りない部分を国が補う。国が賃金の上乗せを行うわけである。事業主は彼らの生産量に対してのみ報酬を支払っている分には損はなく,不足する分を政府が補ってくれるなら,事業主側も受け入れやすくなるだろう。  これは現在の雇用促進法のように数を満たせばよいという法よりも歓迎すべきやり方だと思う。また,補足分は,個々人の労働能力に応じて,必要であればずっと支払われる。これも先に述べた問題を解決する。  しかし,私が問題にしたいのは,国の支出分として補われる部分が労働に対する対価と位置づけられていることである。しかも,健常者と障害者に同じ10万円が払われるとしても,それは生産量が同じだからではない。保護雇用を実施した時点で,同じ汗の量に対して支払うというか,障害者に対して特別な賃金の尺度が使われることになる。  これはよいやり方かもしれない。同じ苦労をしたら同じだけ払われて当然かもしれない。そして障害者には障害を持っているという特別な事情があり,それゆえ能力的に劣る場合があるがそれは本人の責任に帰せないものだから,特別に扱ってもよいという考え方もあるかもしれない。しかし,障害があろうとなかろうと,人それぞれ能力に違いはある。そしてその差もまた個人の努力の差によるとばかりは言えないだろう。そういう場合にも,つまりありとあらゆる場合にも,同じだけ努力をしたなら同じ賃金を払うべきだということにならないか。とすれば,少なくとも国家の水準では,配分システムの基本的な変更を行なうことになる。同じ努力といって実際に汗の量を計測するわけにはいかないだろう。では同じ労働時間のことか。そういった配分システムを作ることは可能だろうか。  より重要だと思うのは,働けない人はどうなるのかということである。その人も別段さぼっているわけではない。だが働くために努力しようにもしようがない。とすると,その人はどうなるのか。障害を持つ人達はそのことを考えてきた。だから,働くことが人間にとって一番大切なことであるとか,働けない奴は屑だとか,考えない(→第8章:石政)。ならば,労働している/していないに応じて差をつけることはないのではないだろうか。保護雇用が生産量に応じた配分ではないにしても,労働に対して評価をしそれに応じた配分を行なうものだとすれば,それは,彼らの主張とうまく整合しないのではないか。 V 提案  1 生産に応じた支払い+所得保障  もっと単純に考えてもよいのではないか。つまり,雇用主は労働者の労働(の成果)に応じて賃金を払う。当然それでは生活するのに足りない場合が出てくる。その場合には,国家が不足分を負担する。しかしそれを労働に対する報酬としてではなく,所得保障として与えることにする。生産に応じた賃金によっては生活ができないことが問題なのだったら,これでよいのではないだろうか。しかも,労働したいという意志は尊重される。また,全く経済的に「自立」して生活する,つまり自分の稼ぎだけで生活するか,そうでなければ全面的に所得保障によって生活を維持するというのではなく,両方を組合わせることができた方が,(他の人と全く同じにではないにしても)働ける人には働いてもらう,それの方が社会全体にとっても利益になるということになると考える。  なお,保護雇用を支持する理由として考えられるのは,人より生産性が低いことがはっきりすること,そして足りない部分を社会保障・所得保障として受けとることが屈辱感を生じさせるということだろうか。一般の人々と同じにあるいはそれ以上に努力しても,国などから保障を受けなければならないという事実を目の前につきつけられる。。それは辛いというのである。しかし,それは少しおかしいのではないかと私は感じる。先に述べたように,働けようが働けなかろうが,人は生きられるべきであり,生活するための資源を他人から受け取ることは恥じるべきことではない。また働ける/働けないということが人を評価する基準ではない。このように考えるなら,むしろ,人並みに働けず,その分給料は少ないが,それはたまたま障害があってそうなっていることであり,それだけのことだと主張すること,堂々と所得保障を受けること,受けることが当然であると主張することが本筋ではないだろうか。また,現在の社会でなかなか評価されない,お金にならない仕事があるけれども,それは実は大切な仕事であることがある,少なくとも当人は真剣にそれに取り組んでおりそれは評価されてよいという主張もわかる。実際,賃金が(もっと)支払われてよい仕事もあるだろう。しかし,それらの「仕事」を全て貨幣に換算すれば評価されたことになるのだろうか。そういうことではないだろうと思う。  ただ,一定の基準額(例えば20万円)まで,賃金+所得保障分を一定(0万円+20万円,5万円+15万円,10万円+10万円,15万円+5万円,20万円+0万円,あとは25万円+0万円(−所得税),等々…)とすると,なんでわざわざ働くのかということになるだろう。純粋に働きたいから働く,あるいは人のため社会のために働くという人ばかりでならこれでもよいかもしれないが,もちろんこの世にいる人はそんな人ばかりではない。とすれば,働いてもらうためにも,賃金に応じて賃金+所得保障の総額が増えていくようなシステムを考えればよい(例えば,5万円+16万円,10万円+12万円,……)。  2 コストの負担  次に,障害があることによって(ない場合よりも余計に)コストがかかるという問題をどうしたらよいのだろうか。  (特に障害を持つ)人が働くことが可能になるためのコストをおおまかに2つに分けることができるだろう。  @:設置するために費用がかかるが,いったん設置すれば,あとは維持するためのコストはそうかからず,1人あたりのコスト,また時間あたりのコストは低くなっていくもの。  A:1人あたり,時間あたりのコストが一定かかるもの。  多くの場合,@は通路やトイレなどの設備といったハードウェア,Aは介助などの人手,人的なコストであるだろう。  @:会社や工場の設備については,企業に負担させればよいという考え方もあると思う。自由競争の中で,障害を持つ人のための環境を整備するのがコストになり,個々の雇用主にとって不利になることは考えられる。しかし,全ての雇用主にこれを義務づけるなら,各雇用主は(ほぼ)同じコストをかけねばならないことになり,結果として競争力に(大きな)差は出ないはずである。もしそれで足りない,すぐに効果が現われにくいというのであれば,より積極的に,設備の整備のための助成,低利あるいは無利子での貸し付け,利子補給などの手段をとるといったことも考えられる。  A:他方,例えばYが仕事をするのに常時あるいは時間に比例した一定時間介助が必要だとすると,その人的な経費はYが労働する期間ずっとかかるものであり,雇っているあいだずっとかかることにもなる。これは,@の場合のように「規模の経済」を期待することができない。これに対して,1人の人が働くためにわざわざ1人(とは限らないが)の人をつけるのは変ではないかという考え方もあるかもしれない。ホーキング博士のように特別な(とまでは言わないにしても,介助者を雇用するそのコストを差し引いても他の人と同等以上に生産できる)人なら別だが,というのである。  しかし,Tに述べたように,働くために介助が必要なら,働かずに暮らすためにも介助が必要だろう。ならば,少なくともかなりの場合(例えば両方の介助の量がそう変わらない場合)には,働くための介助を行なっても不利益にはならない。生活についての介助を公的な資金によって行なうべきだとすれば(これについては第T部を参照),労働にあたっての介助も同様の制度の中で保障されてよい。つまり,この部分は,企業に負担を求めるのでなく,公的な財源によって保障するのがよいということになる。奨励金のように将来はコストがかからなくなることを想定しているものより,恒常的にかかるコストに対する対応としては不十分なものより,こうしたシステムの方が合理的だと私は考える。10)  3 結論  以上は,障害者の雇用を巡って起こっている具体的な問題をすべて把握した上で考えたものではない。また使ったモデルも非常に単純なものであり,実際にはもっといろいろなことを考え合わせた上で検討すべきだろう。だが以上からひとまず達した結論は,述べてきたのと少し順序を変えると,次のようになる。  1 賃金・所得について  1-1 雇用主は生産に比例した賃金を払うこと。     Wx:Wy=Px:Py  1-2 その賃金によって十分な生活水準を得られない場合には,所得保障によって対応す   ること。  2 労働が可能になるためのコストCについて。  2-1 障害を持つ人も利用可能な基本的な設備については,公共的な施設等に求めらるの   と同様,少なくとも一定規模以上の事業主に対しては,その整備を義務づける。設   備の整備のために公的な助成を行うという手段も考えられる。  2-2 介助など一人一人に対して恒常的にかかるコストについては,生活に対する介助と   同じく社会的に負担するものとする。11) 注 1) 執筆の分担は以下の通り。呉は注2にまとめた障害者の労働にかかわる法令等を収集 した。本報告の基本的なアイデア(のいくつか)は雨宮が提出し,その線で原稿が書かれた。ただし,「障害者の就労」はなかなか厄介な主題でもあり,編集段階で,かなり(他の報告に比べてずっと多く)手が加えられていることを申し添えておく。 2) 労働,障害者の労働について述べている宣言・法律からいくつかを引用する(手塚・ 松井[1984]等を利用)。  @「1.人はすべて,勤労に従い,職業を自由に選び,公正で有利な勤労条件を得,また,失業に対して保護を受ける権利を有する。 2.人はすべて,いかなる差別も受けることなく,同等の勤労に対して同等の報酬を受ける権利を有する。 3.勤労する者はすべて,自己と家族とのために人間の尊厳に相応しい生活を保障し,さらに必要な場合には他の社会的保障手段によって補充されるような公正で有利な報酬を受ける権利を有する。 4.人はすべて,自己の利益を保護するために労働組合を組織し,またこれに加入する権利を有する。」(「世界人権宣言」第23条)  A「障害者は,その人間としての尊厳が尊重される生まれながらの権利を有している。障害者は,その障害の原因,特質及び程度に関わらず,同年齢の市民と同等の基本的権利を有する。このことは,まず第一に,可能な限り通常のかつ十分満たされた相当の生活を送ることができる権利を意味する。」(「障害者の権利宣言」第3項)  B「障害者は,経済的社会的保障を受け,相当の生活水準を保つ権利を有する。障害者は,その能力に従い,保障を受け,雇用され,または有益で生産的かつ報酬を受ける職業に従事し,労働組合に参加する権利を有する。」(「障害者の権利宣言」第7項)  C「すべての国民は,法の下に平等であって,人種,信条,性別,社会的身分または門地により,政治的,経済的または社会的関係において,差別されない。」(「日本国憲法」第14条)  D「すべて国民は,勤労の権利を有し,義務を負う。」(「日本国憲法」第27条)  E「障害者である労働者は,経済社会を構成する労働者の一員として,職業生活においてその能力を発揮する機会を与えられるものとする。」(「障害者の雇用の促進等に関する法律」第2条の2)  F「すべて身体障害者は,社会を構成する一員として社会,経済,文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられるものとする。」(「身体障害者福祉法」第2条の2),なお「障害者基本法」第3条の2もまったく同文  G「心身障害者は,その有する能力を活用することにより,進んで社会経済活動に参与するように努めなければならない。」(心身障害者対策基本法第6条「自立への努力」。なお心身障害者対策基本法は1993年11月に「障害者基本法」に改正され,その第6条では上記の文中の「参与」が「参加」に変わっている。)  H「すべて身体障害者は,自ら進んでその障害を克服し,その有する能力を活用することにより,社会経済活動に参加することができるように努めなければならない。」(「身体障害者福祉法」第2条の1)  I「障害者である労働者は,職業に従事する者としての自覚を持ち,自ら進んで,その能力の開発及び向上を図り,有為な職業人として自立するように努めなければならない。」(「障害者の雇用の促進等に関する法律」第2条の3)  @Bは労働の権利を宣言し,同時に,@では「同等の勤労に対して同等の報酬」,Bでは「その能力に従い」という条件が付与されている。Cでは(障害によって)労働能力に差がある場合の格差を差別とするか否かは言われていない。Dも同様。EFは「能力を発揮する機会」「参加する機会」となっている。「権利」とはなっていない。GHIは「つとめなければならない」と,Dの「権利と義務」の対の中で,EFに対して「義務」の側を言っている。総じて日本の法律では,障害者の労働については「権利」という言い方はなされていない。また,「能力を発揮する機会」といった表現もあるが,能力の違いをどう扱うかについての表現がない,あるいは曖昧である。 3) Cを誰か(例えばX)が負担することによって(例えば,その人がYの仕事のための介助にあたることによって),Xの生産量が減少し,総合的には利益を生まないこともあるかもしれない。しかし,それでXが仕事に就かないことになっても,やはりCをXが負担せねばならないとすればどうか。このように利益/損失を算出するにはなおいくつかのケースを考えねばならない。だが,少なくとも,本文に記したようなケースがありうることは確かである。 4) アメリカ人はこういう計算をよくする。 「アメリカにおける障害者対策の歴史は,『職業リハビリテーション・サービス』に重点がおかれたものであったことは,よく知られているところである。その基本に流れる考え方には,障害者を単なる福祉の対象として無為な生活を送らせて税金の『消費者』(consumer)としておくよりも,働く機会を与えることによって,福祉の費用を軽減する一方で障害者を『納税者』(taxpayer)にすることができるという『経済効率論』がある。」(調[1991:132]) 5) 1960年7月25日制定,法律 123号(この時の名称は「身体障害者雇用促進法」。1966年以降何回か改訂されている。1976年改正で,民間事業主の雇用義務が努力義務から法的義務に。1987年改正で,精神薄弱者を実雇用率の算定にカウント,精神薄弱者を調整金・報奨金の支給対象に。1992年改正で,精神障害回復者等を助成金の支給対象に,重度障害者である短時間労働者を雇用率制度及び納付金制度の対象に,重度精神薄弱者をダブルカウント,等。現在の制度は1992年改正の法律(1992年6月3日法律第67号,附則同日法律第68号)及び「障害者の雇用の促進等に関する法律施行令」(政令),「障害者の雇用促進等に関する法律施行規則」(労働省令)による。以下制度についての紹介は,上記の法令も収録している日本障害者雇用促進協会編[1993]による。 6) 1992年度のデータについては日本障害者雇用促進協会編[1993:22-31],1987年のデ ータについては『厚生白書』1992年版,p.71による。 7) 「今の奨励金的な,障害者を1人雇うといくらの奨励金を出すとかね,そういう制度じゃ(雇用を拡大するのは)無理なの。だから1・2年過ぎたら今まで15万もらっていたのが7万になるとか。1年半いたら間接的いじめをして出てってもらうとか。新しい人が入れば,また制度が使えるから。国にしたらね,企業が首を切るのは認められないけど,『僕やめます』っていうのはいい。それから,親に,『雇ってやるんだから1年半たったらやめていくように』と保証書をとる。『2年過ぎたら給料は3分の1にしますよ,それでもいいなら雇いますよ』なんか大阪で文書取り交わしたのがあってそれが出て来たじゃない。」(B氏→注10) 8) 「仕事内容に慣れる慣れないっていうのはないんだよね。視覚障害者の人に字を書けって言ったってそれは無理だから。点字ワープロだったら点字ワープロで一般に送ってもだめなわけよ。点字ワープロになったものを介助にかかわる人が,点字になったものを一般のワープロにうちかえるとかシステムがなければだめなわけでしょ。機械で何とかなる部分はあるけどね。そういう面では介助が3年で慣れたらなくなるっていう話ではないの。」(B氏) 9) 調[1991:158]。 ただ保護雇用に関する大部の資料集(ゼンコロ[1980])を見る  と,多くの場合,保護雇用(sheltered employment) は,一般の職場とは別の「保護工 場(sheltered workshop)」における障害者の雇用を指すようで,この点は,B氏(→注 10)などの捉え方とは異なる。 10) 本章での考察は,Tに述べたように,単に偏見や無理解があるというのではなく,本当に生産性が低い場合,コストがかかる場合に障害者の雇用をどう考えたらよいのかという疑問から出発している。そのことを聞き取りの中で何度も質問している。そしてそれに納得できず,特に保護雇用というやり方に疑問を感じたため,いろいろと考えることになった。聞き取りにおけるその部分,さらにその前後に聞いた話を再録し,今それを振り返ってみて,どのようにそれを見ることができるかのか,考えてみる。 雨宮「例えば,普通の健常者が10する仕事を,8なり5なりしかできないという,そういう生産性に対して,お金というのは払われるべきだと思いますか?」 A氏「うん,それは難しいところですね。基本的にはね,障害者の人たちが自分の能力を 100%発揮できるための環境が整えられているのか,というのがまず問題だと思いますね。現実の社会はまだそこまでいっていないですから,障害者の人たちはそういう基本的な部分で,同じスタート台に立てないという不利を背負わされているわけですから,それを考慮すれば,仕事の面で多少効率が落ちても,現実,あと現状では同じ給料を払うべきだと,そういうふうには思いますね。ただその仕事する上での基盤がどれくらい整えられているかっていうのは,個人個人によって違いますのでね,一律に全部同じ給料を払うべきだとは言えないですね。まあ,仕事の内容にもよりますしね。その人の体とか,それまで受けてきた教育のレベルとか,生活環境とか,全部絡んできますからね,一律にはなかなか言えないけれども,原則的にはやはり同じだけ支払うべきだと思います。ただその仕事の能率があまりにも一般の人に比べて落ちる場合には,やはりある程度少ないのは止むを得ないですね。僕の場合で言うとですね,毎月銀行に通って仕事をするのであれば,それは当然同じ給料をもらうべきだと思いますけどね,まあ僕の場合自分で選んで,在宅で仕事しているようにしているから,それはやっぱり1年雇用になってもしょうがないと思いますけどね。」  能力を発揮できる環境が整えられていないことが問題で,それがまず解決されるべきことだという見解である。本章ではこれをコストの問題として扱った。「同じ給料」に対する答えはかなり慎重なもので,差をつけないことを全面的に肯定しているわけではなく,環境が整えば,一律に同じでなくても仕方ないとも考えている。インタビューの時に疑問に十分に答えてくれないと感じたのは,私の方としては,仮にコストの問題がないとしてどう考えるかを単刀直入に聞きたかったからだが,現実に環境の整備が重要でそれが優先されるべきことは確かであり,まずそれが整わないことにはという慎重な答えは,現実の中で問題を考えている以上,当然のことかもしれない。  この質問の数分後,今度は前の日にB氏から聞いた「保護雇用」について聞いている。 雨宮「仕事をして,普通の人が15万もらう仕事を5万円分の仕事の生産性しかなくて,国から10万プラスして企業から15万円分というかたちで払われるのですと,健常者から見ると,それはずるいというか,生産性に比例していないわけですから,当然健常者の方から文句が出ると思うんですよね,この点はどのように考えられますか?」 A氏「それはさっきも言いましたけど,要するに障害者の置かれている立場というのが健常者とかに比べて,非常に不利な状態にあるということをね,まず理解してもらいたいし,それを補うためには障害者には一定の収入が必要だということは言えると思うんですよね。ただ,それはもう理解してもらうように,障害者から声を大にして言っていくしかないでしょうね。」  先の回答にあった内容に,不利な環境の中で生活するのに一定の収入が必要だという点が加わっている。あるいは先の答えの中でもこのことが意識されていたのかもしれない。そして,何が「ずるい」のか,質問する側もこの時点ではっきりとはしていなかった。「生産性に比例していない」かたちで払われること(所得保障的なものも含めて)こと自体を問題にしたかったのか,「企業から」(すなわち労働に対する給料として)払われることを問題にしたかったのか。  A氏(第8章:石政の報告ではFさん)は銀行で嘱託というかたちで翻訳(和文英訳)の仕事をしているのと同時に,出版社からの依頼で英語の本を日本語に翻訳する仕事をしている。足以外の障害はない。今は車椅子を使っているが以前は松葉杖だった。 A氏「本当は大学卒業する時は,コピーライターっていう仕事をやりたかったんですね。ただ僕が大学を出る頃っていうのは,1973年,リクルートからの雑誌がどんどん送られて来ますよね。博報堂とか,それからもう一つ有名な…電通か,そこにはちゃんと,ちゃんとっておかしいけど(笑),身体障害者不可って書いてありました。これは全く最初から話にならないということで,それは諦めて,で,大学院に入ったんですけどね。」  その後,博士課程3年の時に父親が死去したため大学院を中退し,就職活動をするのだが,26・27歳という年齢と大学院まで行っていることがかえって邪魔になり,また面接まで行っても障害のことを聞かれ(第8章:Fさん),受けた3,4社全てに断わられる。そこで職業安定所を通し,障害者雇用促進法の障害者枠で銀行に就職することになった。当初銀行では週に1,2回位は会社に来てほしいということだったが,結局在宅のままということになった。嘱託としての雇用で,1年ごとに契約が更新される。 雨宮「1年ごとの契約とか,給料がちょっと低いとか,他にそういう…」 A氏「あんまり仕事が来ないっていう(笑)…最初のうちは試用期間で…わりと仕事はあったんですけど,2年目,3年目からあまりもうほとんど仕事がなくなって,1件か2件あればよいかなっていう状態がずっと続いてまして,でも給料はもらえるということで。でも最初のうちすごく不安だったですね。全然仕事をしていないから,次の契約更新の時は首を切られるのかなっていうのはありましたね。…」  現在は翻訳の仕事を別にしていて,「あまり銀行から仕事が来ると困るので(笑),自分から「仕事をくれ」とはなかなか言い出せなくて」,今は銀行から仕事が来るのは年に数度,1回1週間くらいで終わる仕事だという。  A氏は仕事ができる。しかし企業その他の社会的な環境が整っていないために,仕事ができない。そして,先に見た促進法の枠で入っているという事情のためだと思うが,ある程度の給料は払われるが仕事が来ない。その給料は,年によって違うが今までを平均すれば,出版社から依頼の来る翻訳からの収入より多い。しかし,やっておもろしいのは本の和訳の方だと言う。英文和訳には自信を持てるが,銀行の書類の和文英訳には自信が持てない。石政の報告でも引用されているように「自分にしかできない事をやって,それで評価される。そういう仕事を持ちたい。簡単にいうと,僕はすごく職人志向が強くて,職人というのに憧れるんですよね。」  現在の雇用促進法による雇用のもとで,彼にとって銀行の仕事はそういう仕事になりえない。もちろん,普通に勤めているからといってその仕事が「自分にしかできない仕事」になるとも限らないだろうが。そして,同時に,やはり石政の報告(ではFさん)に引用されているように,「お金にならないけれども大切な仕事」の価値を認める。 A氏「『仕事をするから生活保護はいらない』という生き方も『仕事しないで地域活動をするけれども,生活保護という形でお金はもらいたい』という人はそれでもいいしね,どちらの生き方も価値のある生き方だと思うから。それが両方とも社会の中できない。例えば生活保護を受けていると,今の日本ではちょっとこう何もできない,不能者だという考え方をされてしまうけれども,そうではないんだっていう考え方認められればね,そういう社会になって欲しいと思いますね。で,その社会を作るためには,やっぱり障害者がもっと活動しなくてはと思うんですね。」  先の保護雇用についての私の質問はこのA氏の話の直後,「それは良く分かったんですけど,じゃ例えば,保護受けない代わりに仕事をして,普通の人が…」と続く。強引な割り込みだが,労働とその対価とをどう考えればよいのか,詰めておきたかったのだ。  この「保護雇用」の話は,A氏のインタヴューの前日にインタビューしたB氏(第8章:石政の報告ではDさん)が語った中に出てきた。 B氏「保護雇用っていうのは,簡単に言えばね,生活のために15万必要だとするでしょ。それを全部,企業に15万出せといって,Bを雇用するのは,大変だな。だから,行政なら行政が,そうだな,立岩君は15万働く,Bは立岩君の3分の1,5万は働けると。だから,5万円分は企業で出しましょうと。あとの分の10万は国が保障しましょうと。で,手取りは立岩君もBも15万になると。企業が5万負担して,あとの10万円分は国が出す,まあ行政っていうかね,保障しましょうと。それが保護雇用なの。」  テープを起こしてみると「生活のため」となっている。生活に必要な分を企業の分と国の分を合せて得られるべきだと言う。これはむしろ私がこの文章で書いたことに近い。  この後,話は労働省が保護雇用に冷淡だという話に移っていく。この保護雇用を求める運動はB氏が直接関わっていたのではない。今,彼は職業安定所にみんなで押しかけ登録する運動などをやっている(→第8章:石政報告のDさんの1番目の話)。「ゼンコロ」という組織がかつて行った交渉についてB氏が聞いている話である。 B氏「基本的な労働省の考え方は,国が継続的な保護を加えて働くっていう人は労働行政ではないと。それは所得保障の問題であって,労働保障の問題ではないと。年金の保障,所得保障の次元であって,厚生省の仕事であって,労働省が労働保障として働く場の保障としてやるべきでなく,そういう人達は施設とか年金で(暮らせばよく)働く必要ないんじゃないかっていうのがある。だから,労働行政の考え方っていうのはある程度訓練をして訓練の効果がある人に対しては,企業に対して奨励金だとか,設備をつけることに対してはやるけれどもそれ以外のことに関しては,よその部署の仕事であって保護雇用なんてとんでもないと。そういう人達は働くことないんだ,ということなんだ。」  受け取る側にとっては,どの役所が支給を担当しようと関係ない。だから,こうした発言を部署から部署への「たらい回し」,責任回避と受け取られても仕方がない。しかし,直接に所得を保障する仕事は労働省の担当ではなく,厚生省の担当だというならそれ自体は認めてもよい。私が取るのは,労働できるできないに関係なく,生活を維持できる水準を保障するべきだという立場だからである。  この役人の発言がB氏の言う通りだとして,この役人のおかしなところは,「働く必要がない」と言っているところである。他の人の半分しか働けなくても,働けるならば働いてもよいはずだ。そしてこれはTで述べたように,社会にとっても「損」なことではない(場合がかなりある)。生活保護を支給するより,半分働いてもらい残り半分を政府がもった方がかかる費用は少なくてすむ。この役人の発想は,「一人前」に働くか,そうでなければ全面的に生活保護か(その予算が多くなっても,それは労働省の担当ではない)という発想である。国の予算の全体を考えていないということである。労働省にもっていくべき話かという点については,私の考えはB氏と違う。だが,それ以外は私の考えと同じだ。次の話の後の方もそのことについて語られている。 石政:「この保護雇用に関してはそこに働いている人の同意みたいなのが必要だと思うんですよね,やっぱり。健常者っていうのは,障害者に対して,たぶん,満たない部分を国が保障して,同じ給料をもらっているっていうふうに,やっぱり思っちゃう人が出てくるということで…。」 B氏:「労働の価値観の問題でしょ。だから,生産性でいけば,ずっと施設にいればいいんだ,と。だけど生産性に結びつかない仕事って,いっぱいあるでしょ。健常者のやっている仕事でも。」 石政:「そうですよね,だから,そういう人ばっかりではないですよね。生産性しか認めないっていう,世の中がそういう…」 B氏:「だから,そういう面からいけば,『働かざるもの食うべからず』じゃないけど,老人になったら生産性がないから殺してしまえとか,そういう話になるでしょ。で,『いや,若いころ一生懸命働いたんだし』,『いや,働かなくなった時点でだめだ』…。生活保護だってそういう感覚いっぱいあるでしょ。だから,そういう面で,社会的,全体的な,一つの意識変革を求める運動を,運動側としてはね。それと当面どれだけやれるかっていうのと。年金というかたちで働かなくってもお金はおりるわけだから,それを保護雇用というかたちで代えるのも一つの方法ではないかともちかけるわけ。でも,日本だと,厚生行政と労働行政と全然違うから,それはよその部署です,と一刀両断。そうじゃなくって,そうすれば,施設にかけてる措置費が減るとか言っても,『それは厚生省の話であって,うちでは…』って。」 この後,B氏の話はCILの職員の給料の話に移り(→第10章:石井),石政によって「労働の価値観」の話に戻される。 B氏「特に健常者,養護学校の教師とか作業所の職員とかは,作業所の月給,っていうか,手当が5千円でもね,汗を流して,美しい姿で,ちゃんと8時間一生懸命仕事した,『いやあ,いい人だな』って。本人はそんなこと思っていない。5千円より5万円欲しいってみんな思っている。あれは,そうじゃない人の自己満足の世界。だから,労働に対する評価はね,生産性よりも,やっぱり拘束時間に支払うべきじゃないか。それを一般企業とか,一般,みんなに同意を求めるのは非常に難しいから,さっきの保護雇用っていうのがそういう部分なの。……。  今の障害基礎年金が,俺の場合は,7万6千円かな,月額。7万6千円じゃ生活できないよね。これをみんなが生活できるように,労働省が『あれはよそのやる仕事ですよ』って言うなら,『年金15万円にしよう』なんて言ったらさ,(厚生年金等から基礎年金にお金が出ているから)もう労働組合とかさ,反対運動が起こる。だから国の負担率を上げようという話がでる。分配率の問題だからね。まあ,出所は同じなんだけれどもね。年金が出すか,国が出すか,国だって,みんなの税金だからさ。」(この後が石政(第8章)が最後に引用した障害者プロレスや車椅子競輪の話)  生産性が低くても暮らせること。そのためには「働かざる者…」の意識を変えないといけない(例えば,企業・職場の人が生産性による分配をしなくなる?)。しかしそう簡単ではない。そこで当面,保護雇用,あるいは年金。それぞれお金の出所を巡っていろいろある。だがいずれにしても「みんな」が負担に応じないとならない。  このことを語りながら,B氏は分配の方法として「拘束時間に応じた分配」(企業はだめだろうから国による)を求める。私は「暮らせること」を認めて,その上で,「拘束時間に応じた分配」と主張する必要があるのか,それに疑問を持って考えてきて,保護雇用でなくてもよいのではないかと述べた。だが,1月働いて5千円は確かにつらい。保護雇用は依然として「働く」ことに価値を置いていて,障害者の主張からすれば云々,といった議論以前のことかもしれない。まだ考えることが残っている。 11) このようにするとして,それで雇用が進むだろうか。私は,かなりの部分は解決されると考える。しかし,人は(やってみるとそうでもないことでも)未経験のこと,厄介そうなことにはなかなか手をつけようとしない。現状のままなんとかやっていけていけるのなら,その状態を変えようとはしない。とすれば,考えられることは,雇用差別にかかわる法の規制を厳しくすることである。アメリカ合衆国の「障害をもつアメリカ人法」(ADA,1990年)に規定されているような,当該の業務に直接に関係しない人の属性によって雇用,就労にあたっての差別を行うことを禁止することである。 「いかなる適用事業体も,求人手続き,従業員の採用や昇進,解雇,報酬,訓練,およびその他の雇用条件および従業員の特典に関して,資格のある障害者を障害ゆえに差別してはならない。」(第102項) 「『資格のある障害者』(qualified individual with a disability)とは適切な設備(配慮)があれば,あるいは適切な配備(配慮)がなくても,現有のまたは希望する職務に伴う本質的な機能を遂行できる障害者を指す。」(第101項8)。 「『適用事業体』中の雇用主は一般的に『15人以上の従業員を有して,本年または前年に労働日20週以上,商取引を前提とする産業に従事した個人またはその代理人』を指す(ただし発効日から2年間は25人以上)」(第101項5)(以上斎藤明子訳)  ただ,「職務に伴う本質的機能を遂行できる障害者」が何を指すのか,詳しいことはよくわからなかった。(「適切な設備(配慮)があれば,あるいは適切な配備(配慮)がなくても」)YがXと同じ能率で仕事ができる場合には当然Yを差別してはならない。また当該の仕事をYが全くできないなら雇用主はYを雇う義務はない。では,Yの時間あたりの生産がXの50%の場合はどうか。私が述べたのは,賃金はXの50%でよいということだった。雇用主がYに50%を下回る賃金しか払おうとしないことがあるかもしれない。ここでの私の主張からはこれもまた雇用に関する差別として禁止されねばならない。つまり「同一労働に対する同一賃金」「仕事の達成に応じた待遇」が法的に保障されねばならないということである。しかし,給料は50%でよいから50%できる人も雇わねばならないとすると,通常の場合,つまり職を求める人の数が雇用主が求める人数より多い場合,どのような選択基準で人を選別し採用することになるのか。これはかなり基本的な問題だと思う。どうしたらよいのか,今のところ,よい考えを思いつかない。